尾ひれ100%ブログ

服に7つのシミを持つ男プレゼンツ

就活やばお

諸君、「河童のクゥと夏休み」を観ただろうか。恐ろしいお話である。

あの映画がなつかしく感じる時期は危険である。人間への嫌悪が高まっているサインである。

「イントゥザワイルド」を半泣きで観た後3日寝込んだりするようになったらもう手遅れ、厭世のあまりアラスカに一人旅に行くなどと言いだしかねない危険な状態である。





私が就活でアッピールする強みの一つにこれがある。多角的な視点から物事を検討できる能力。

例えば、今日三島由紀夫仮面の告白を読んだ。

するといろいろ感じることがある。

三島の文学は構造主義的で、人間の苦悩を描いているようで、それでいて乾いた印象があるわけではないが、すべてを理解尽くしたような理性の醸す優位性みたいな雰囲気がある。

仮面の告白で描かれているのは、人間の苦悩ではなく、むしろその苦悩を告白している人間の姿であるような感じがした。

それ自体がフィクション(作品)として、日本語で巧みに造形されているところに魅力がある。

ぼくは昔、三島由紀夫を、マッチョなロマン主義に溺れた、虚構にしか主体を置けない日本語が凄いだけのホモだと思っていたが、そうではなかった。

ロマン主義の無意味さを理解しながら、それに自ら身を投じ創り上げる種類の芸術家だったまでだった。

その三島がすべてを見通しているような・・・と形容したのが坂口安吾だ。

安吾の文学も、すべてわかった土俵の上に芸術を創ろうとする種類の作家のように思っている。

ただそこにロマン主義への放蕩みたいなのはない。わかった上で、そのどうしようもなさを見つめていて、感受性が豊かな青年のような思考を忘れずに、詩的な美しさを率直に追求しようとしている。

そこに意味がないと知りながら、どうしても生活と切り離せずに悩み、自らを鼓舞して生きようとした安吾は人間らしくてとても好きだ。

逆に、太宰治が身を置いて弄んでいるのは、人間の苦悩そのもののほうである。

三島からすれば、一つ低次の次元で文学を行っているように見えたのも無理はない。

ぼく自身は、太宰治も好きである。

絶望を真に受けるその度ごとにもうだめだ~となったかと思えば、三つ峠山に登ってなんだかさわやかな気持ちの文章を書いたりしてる、情けない感じがなんとも心地よくて好きだ。

もちろん以上の三島の解釈も、安吾や太宰との比較も、ぼくが勝手に感じているだけのものである。論文に書くような深い考察には及ばない。

大切なのは、それが自己の中で一つの論理として完結したことだ。

三島を読んだ後に、太宰を思い出して、異なる見方を手に入れる。

今度はその見方を友達に当てはめたりする。

そうすると理解が深まったような気がするので、面白い。

これが就活で言っている、文学を学ぶことで身についた多角的な視点で物事を考える能力である。

つまり「多角的な視点で物事を考えられる」という能力に帰結するように、たまたま感じた思考のプロセスを当てはめただけである。

多角的に物事を考える運動は誰でもやっている。

こんなことを言わすな。

テストの点数と、コミュニケーション力、これだけあればそのへんの会社で働くぐらいのことをするのには十分だと思うのだが、違うのだろうか。

面倒な質問はもううんざりである。

いいから雇え。