尾ひれ100%ブログ

服に7つのシミを持つ男プレゼンツ

くらしのアナキズム

読みました。

 

11月。仕事を替えて、抱えていた責任が7割減し、その分、心に余裕が生まれた。

四囲の現実に目を向けてゆっくりと考え事ができるとき、僕は最も自由を感じる。あと無限にAPEXゲームをプレイできる時。これは至高。

仕事に追われている時は、他人のこさえた歯車を前にして、それをどう効率的に多く回すかを常に考えている。

歯車の外で、自分勝手に考えることがどれほど幸福なことか。

しかし、本を読んで、思索を巡らせても、アウトプットしないと考えたことを忘れてしまう。

なので、それらを思い出しながら書き残しておこうと思う。

 

この本の趣旨は、人類学を用いて国家、ひいては政府、共同体の意義を再定義しようという試みである。

世界中の様々な民族の例を引いて、人間が「より良く」生きるために本当に必要な共同体の仕組みは何かを考える。

結論としては、自治的であれということだったと思う。

つまり、身の回りの生活を政治に任せるのではなく、より生活に近しい市民同士、隣人同士で手を取り合い、少しずつ解決を思考していくことだと。

そんなん言うても、というのが正直な感想である。

僕たちはできればマンションの隣人と顔を合わせたくないし、地元の組合は地獄である。

そうした意識は不可逆的に進行していくだろう。これはもう避けようがない。

現代の問題を、平成以前の自治体のあり方や旧時代文明の民族の政治をそのまま移植することによって解決できない。

人類は便利で心地良く、やりたくないことを少しでも減らすことにその叡智を振り絞り続ける。

現代の問題とは、市民の生活をより良くするために国家が大して機能していないように思えることだと思う。

メディアを見る限り、政治家とは、非生産的な議論の仕方を一生やっていて、喋ることは何も言ってないのと同じようなことばかり。何をしてくれてるのかよくわからないけど、いっぱいいて、えらい高い給料をもらってるらしいというイケスカない連中のことである。

僕らが政治に無関心なのは、政治に対する諦観があるからだ。誰に投票したって身の回りの生活がどう良くなるとも思えない。何も変わらないということを知っている。

オリンピックとか、給付金とか、どうでもいいし、それより明日どう働くかと給料上げることしか考えていない。

日本人全体の感覚ではないかと思う。言ってしまえば政治がどう転んでも今目に見える生活は変わらず「そこそこ」で、声をあげるほどの不満もなければ何かを変えようという気もない。

そうなると、本当に問題というべきものがあるのか?とも思えてくる。

たしかに政治家はバカで裕福でジジイなので腹立たしいが、皆んながツイッターで言っているのはただそれだけの不満だったりしないのか?

僕たちは今のまま、どう給料を上げるか考えていればいいのではないか?

そうすれば生活は豊かになる。働き方を改善するのは政府じゃなくても会社ができる。

結局アナーキズムに立ち返ってしまった。政治を当てにせず、どうすれば生活が豊かになるのか?自分の力で何とかするにはどうしたらいいのかを考えることが、自分を豊かにして、社会を発展させるのではなかろうか。

いったいおれはこの本で何を学んだんだ。

みんなはどう思う?