グッナイ・プンプン
今日は誰もかまってくれなかったので、スチームサウナとドライサウナを独り行き来しながら、将来のことについて不安になったり水着の女性の背泳ぎに情欲を催したりしていた。
同級生のみんなは就職活動である。
私もこのままバルクとカットのことだけを考えて生きていけるとは思っていない。
このあいだドブリンに遊びに来た、友人のお兄さんが美大卒のグラフィックデザイナーとかで、それが小さな火種となってか、ここへきて美大への想いが募ったりしている。
ちょっと前は、「臨床心理士におれアナル!」とか口走ったり、もうさらに前は「やっぱ建築家にアナル!」などとトンチンカンなことを言っていた。
もう将来ってどうなるのかわからなすぎ。宇宙か?
矢吹氏ももう21歳、リヴァー・フェニックスが死んだのは23歳なので、あと2年しか時間はないのである。
このところ、「やりたいことをやる」ことが若者にとって一番の美徳のように語られる風潮が鬱陶しいほどだが、それは、世界の見通しが一見して良くなりすぎた現代において、自分のやりたいことがわかりづらくなっていることを受けてのことかもしれない。
何かに向かって突き進もうとする前に、「トカトントン」と聞こえて目が覚めるような、そういう冷めた雰囲気がある。
恋愛もそう。何かにつけて、情熱や衝動のようなものが失われがち♪
パンクロックが本来のパトスを失って、ただ哀愁を漂わせるのみとなったのは、闘う相手を見失なってしまったからである。
既に社会は僕たちに選ぶ権利を、自由を与えている。
巨大な自由に足が震えて縮こまり、何もしたくない、物言わぬ石ころかなにかになりたいという即自化願望が現代の我々若者の本音である。
このままではイカンと、作為的に情熱を装ったりもするけれど、所詮ツクリモノでは長く続かんのである。
もうそういうアプローチは通用しないのかもしれない。
ニブイ人間だけが「しあわせ」なのだ、とは岡本太郎の言葉である。
真の幸福とは死と相対する時にあるような魂の「歓喜」のほうにあるという、これも僕らの好きなマッチョな幸福論である。
ぼくもそう思うし、そうでありたいと思ってきたが、それは単なる凡人の憧れでしかないのかも知れない。
ぼくが高校3年生の頃は、早稲田大学文学部に合格して日本文学科に進むことが、これ以上ない正解なのだと確信していた。
思うに、あのままのぼくであれば(それはあり得ないことかもしれないが)、そのままなんとなく大学生活をウェイしてなんとなく良い企業に就職して何の疑問もなく満足した人生を送っていただろう。
しかしそうはならず、2年生になったあたりで突然自我が崩壊、トチ狂ったぼくは、大学3年の9月、国外逃亡した。
そしてその「人生の夏休みの夏休み」が終わろうとしている今、結局将来に対する展望は開けないままである。
しかし実はここまで全部建前で、普通に就職活動を戦おうとしないのは、自分には人と違う何かがあるというありもしない幻想を抱いているからであり、そして就職活動が単純に嫌だからであり、要は理屈こねて逃げようとしているだけなのだ、長男は、つべこべ言わずに両親にされた投資を増やして返さなければならないのだ、わかったかこの朝ドラポンコツちょうちんパンツゥ~~!!(コミカド先生)
これは至極常識的な見解である。
この類いの話題に限らず最近不安になるが、ニブくあることでしあわせになれるのだから、常識の裏をつつくような思考に果たして本当に意味はあるのだろうか。
もしかしてだけど、ニブイと言うと何かかっこ悪いからって、おれたち余計な苦労してないか?みたいなことである。
いろいろ書いたが、忘れるなかれ、言葉はいつもクソッタレである。つまり文学とは、是れ即ちクソカキベラである。
言葉遊びでは何事も成せない。書を捨てて町へ出よ。
「嫌われる勇気」なんぞを留学に持ってくるな、Sくん。
あんなインチキの自己啓発本で人生が変わるものか。