『君たちはどう生きるか』観た
全然面白くなかったというのが率直な感想である。
私は宮崎駿作品の大ファンで、しかも芸術として好んでいるという面倒臭いタイプのファンである。しかし今回の映画は面白くなかった。
昨日、金曜ロードショーで『もののけ姫』を放映していたからそれも観た。これはやはり面白かった。私は宮崎駿作品で『もののけ姫』がいちばん好きだ。せりふをほとんど暗誦できてしまうぐらいに観た。『君たちはどう生きるか』の監督・脚本が宮崎駿であることを私は未だ信じていない。息子のゴローがつくったにちがいないと思っている。
【千と千尋の神隠し】人間ドキュメント~絵に生命を吹き込め~【宮崎駿】 - YouTube
これはスタジオジブリの制作現場を取材した映像である。この中で出てくる「世界の秘密」という言葉について。
それは語りえぬもの、すなわち一般的には表現・伝達が不能な、世界の手触りのようなものである。それらを何らかの形で表現・伝達する職業を芸術家と呼ぶ。
私は長年それに強い憧れを抱いてきた。独自の実感を表現・伝達できることが何より価値のあることだと感じていた。だが、なぜそれが何より価値のあるものなのかは分からない。
【宮崎駿】世界を体で感じよう 吉本ばななとの対談【千と千尋の神隠し】 - YouTube
これで語られているのは、現代の子どもたちが「世界の秘密」に触れる機会が減っていること、また駿自身の仕事がそれを助長してしまうというジレンマについてである。
宮崎駿は「世界の秘密」に触れられないことが「不幸」であるという前提のもとで言葉を重ねている。私の感覚とも一致はしつつ、なぜそれが何より価値あるものなのかということについては答えを教えてくれているわけではない。ヒントになりそうなのは、「子供」についてのエピソードだけ。
経済社会の行末を論じて絶望する宮崎駿の前にどんぐりを磨いて並べる子供のすがた。それを見て駿は子供を「祝福」しなければならないと思ったと言った。憂いていた世俗の問題がどうでもよく思えるほど、子供の心が何より尊いものだと感じたのだろう。それは理屈を超えて実感する人間の中の真実だ。なぜなのかはわからない。
宮崎駿作品の魅力は映画を通して「世界の秘密」に触れた時の喜びを感じることができる点だ。これは私の中で「良い作品」であるかを決める突き詰めた唯一の基準でもある。(なぜなら私が最も価値をおく点だから)
その試みは、作品の主題が複雑であるほど困難を極める。その点において『もののけ姫』は自然と人間の調和という超絶重たい主題であったにも関わらず、見事に真実を積み重ねて描き切った。だからこそ強い感動を起こす力がある。
『君たちはどう生きるか』は何だったのだろう。描くべき主題など何も感じさせず、ただただ過去のジブリ作品の画をパロディした空虚なファンタジーの様子が連なるだけで、世界の真実などなにも描かれていない。上面だけの2次創作かのような出来栄えではなかったか。
テレビで観客が感想を聞かれていた。泣いて感動したと言う。何が感動したのか、聞きたい。きっと何にいちばん価値をおくかが私と違うのだろう。あの映画では彼のそれが表現されていたのだろう。
脳内海賊王と「よつばと」のとーちゃん
私は目標が嫌いだ。目標は、何もしないままでは達成できないからだ。私は基本的に頑張るのが嫌いであった。
今できないことをできるようになったり、今ないものを手に入れたりするのは大変だ。
一方で、そういうことをしていない生活を、無為とか空虚と呼んだりする。
私は無為とか空虚がどちらかといえば嫌いじゃない方だと思っていた。
まあ、嫌いではないのはそうだが、目標をもって生きてこなかったかというとそうではなかったのだと気づいた。
そう聞くと、いかにも自分らしくなく、気持ち悪いことを語り始めそうで今にも逃げ出したくなる空気が漂うが、想像するような意味ではない。
私はライフステージごとに「こうありたい」という理想像を無意識に持っていた。
さらに、その理想像に憧れ続けることが、あろうことか生きる活力となっていた。ということに気づいた。
その構造は、「夢を追い続ける」ことで理解不能な量のエネルギーを発電する脳内海賊王の輩と全く同じである。
私は彼らのことを違う銀河の住人かのように理解不能な対象として置いていたが、私も同じ発電法で生きていたのである。
彼らとの違いは、その追求している「夢」が世間一般「映え」しないという点においてだけである。
私は「よつばと」の「とーちゃん」になりたかった。
白Tシャツに毎日同じジーンズ、秋になるとカーディガンを羽織って、家で仕事をし、童心を忘れずに、ただ日常を過ごす大人に憧れていた。
そして、今、私は、気づけばほとんど「よつばと」のとーちゃんになっていたのである。
とーちゃんとなり、夢が叶ってしまった私は、生きる活力を失ったかに思えた。
しかし私にはもう1人、憧れていた大人がいた。
それは大学生の時に通っていた目医者のおっさんである。熊のような見た目をしていたので、通称、熊のおっさんと呼んでいた。
熊のおっさんは、私の目を診察をする傍ら、患者が来ない時はこうして本を読む生活が好きなんだと、森鴎外の「雁」を取り出して見せた。
その診察室は日当たりが良い一階で、窓からは大学キャンパスの並木が見えた。
その空間に私は憧れた。
そもそも私はアカデミックな空間に身を置くことを一途に憧れていた。
それは漫画「コレクターズ」の「忍」であり、パリの「カルチェ・ラタン」であり、昭和の「文壇」や「サロン」であった。
次はどういった形であれ、その夢を叶えることを思い続けることで生きていく。
日記220101
今日はお正月。
おじいちゃんが2階に来た。1階は0℃と2回言っていた。
小春の散歩に行った。おじいちゃんも少し行きたがっていたようだった。
外はとても寒かった。風が強く、寒さが頬骨に染み入るようだった。
テレビは面白くなかった。お笑いを見たかったが、お笑いが面白くなかった。
お昼はカレーを食べた。おいしかった。中辛だったようだが、気づかなかった。辛さに強くなったようだ。
夜はご馳走なので、腹八分に留めた。
弟は腹八分と言って4リットルぐらい食べていた。
妹と弟と凧あげをした。
昨年、百均で買った凧をあげた。
風が強すぎてすぐあがって面白味がなかった。
キャッチボールもした。妹の投球フォームが良くて面白かった。動画に撮った。
夜はおばあちゃんちに行った。親戚の集まりだ。
道中でスポーツデポに寄った。お父さんがスキーウェアを試着していた。3回ほど。試着は疲れるので、お父さんが機嫌悪くならないように気遣った。
おばあちゃんちでは親戚一同が近況報告を行った。
おれは2回の転職のことを話した。
よく食べた。眠い。
帰りの車は息苦しかった。
おわり。
くらしのアナキズム
読みました。
11月。仕事を替えて、抱えていた責任が7割減し、その分、心に余裕が生まれた。
四囲の現実に目を向けてゆっくりと考え事ができるとき、僕は最も自由を感じる。あと無限にAPEXゲームをプレイできる時。これは至高。
仕事に追われている時は、他人のこさえた歯車を前にして、それをどう効率的に多く回すかを常に考えている。
歯車の外で、自分勝手に考えることがどれほど幸福なことか。
しかし、本を読んで、思索を巡らせても、アウトプットしないと考えたことを忘れてしまう。
なので、それらを思い出しながら書き残しておこうと思う。
この本の趣旨は、人類学を用いて国家、ひいては政府、共同体の意義を再定義しようという試みである。
世界中の様々な民族の例を引いて、人間が「より良く」生きるために本当に必要な共同体の仕組みは何かを考える。
結論としては、自治的であれということだったと思う。
つまり、身の回りの生活を政治に任せるのではなく、より生活に近しい市民同士、隣人同士で手を取り合い、少しずつ解決を思考していくことだと。
そんなん言うても、というのが正直な感想である。
僕たちはできればマンションの隣人と顔を合わせたくないし、地元の組合は地獄である。
そうした意識は不可逆的に進行していくだろう。これはもう避けようがない。
現代の問題を、平成以前の自治体のあり方や旧時代文明の民族の政治をそのまま移植することによって解決できない。
人類は便利で心地良く、やりたくないことを少しでも減らすことにその叡智を振り絞り続ける。
現代の問題とは、市民の生活をより良くするために国家が大して機能していないように思えることだと思う。
メディアを見る限り、政治家とは、非生産的な議論の仕方を一生やっていて、喋ることは何も言ってないのと同じようなことばかり。何をしてくれてるのかよくわからないけど、いっぱいいて、えらい高い給料をもらってるらしいというイケスカない連中のことである。
僕らが政治に無関心なのは、政治に対する諦観があるからだ。誰に投票したって身の回りの生活がどう良くなるとも思えない。何も変わらないということを知っている。
オリンピックとか、給付金とか、どうでもいいし、それより明日どう働くかと給料上げることしか考えていない。
日本人全体の感覚ではないかと思う。言ってしまえば政治がどう転んでも今目に見える生活は変わらず「そこそこ」で、声をあげるほどの不満もなければ何かを変えようという気もない。
そうなると、本当に問題というべきものがあるのか?とも思えてくる。
たしかに政治家はバカで裕福でジジイなので腹立たしいが、皆んながツイッターで言っているのはただそれだけの不満だったりしないのか?
僕たちは今のまま、どう給料を上げるか考えていればいいのではないか?
そうすれば生活は豊かになる。働き方を改善するのは政府じゃなくても会社ができる。
結局アナーキズムに立ち返ってしまった。政治を当てにせず、どうすれば生活が豊かになるのか?自分の力で何とかするにはどうしたらいいのかを考えることが、自分を豊かにして、社会を発展させるのではなかろうか。
いったいおれはこの本で何を学んだんだ。
みんなはどう思う?
SEX EDUCATION
最近、NETFLIXのオリジナルドラマ「セックス・エデュケーション」にハマっている。
海外ドラマをマトモに観るのは小さい頃NHK教育でやっていた「フルハウス」以来だが、これが非常に面白い。
このドラマの存在は以前から知っていた。ただ、タイトルから推察されるに、性に乱れる学生たちを描いて尖っているふうに見せる、日本でいうところの「全裸監督」のようなイケスカなさを感じて手を出すことがなかった。
セックスそのものを題材としている作品は面白くない。セックスをこんなにストレートに描いちゃうんだぜ、斬新だろ、みたいな表情がスケスケであるからだ。
映画「ヘルタースケルター」で沢尻エリカがオモクソセックスしているシーンがある。あのシーンが話題になること自体既に面白くない。
あの沢尻エリカがセックスシーンを演じているということに観客が惹きつけられて、そのシーンが持つ意味は印象として伝わっていない。
エロとグロは意味がなくても人の興味を惹きつける性質を持っている。
エログロの漫画広告がネット上に絶えないのはそういう理由である。
つまり、何が言いたいのかというとセックスを描くことそれ自体で観客を惹きつけている作品はツイッターの広告で出てくる漫画と同レベルである。
その点、「セックス・エデュケーション」は、
ご察しの通りというか、作中、学生たちはめちゃくちゃセックスする。そういうシーンがいっぱいある。
シーズン1・第1話を初めて見た時、その冒頭もあまりに烈しいセックスシーンから始まるのだが、その時こそ少しギョッとするような印象を抱いた。
しかし、それは最初だけで、以降セックスのシーンがいくら差し込まれても違和感を覚えない。単に話の展開に必要なシーンだからそこにセックスが描かれているということがわかる。
様々な性の形態を面白おかしく描きながら、話の主題はあくまでも普遍的なティーンエイジャーの悩み・葛藤であり、それがリアルで面白い。
おすすめです。
棄権
中学生か高校生の頃以来、そう思って参りましたので、かれこれ10年近くそのような思い違いをしていたこととなります。
つまり、この10年の間、真心ブラザーズのYO-KINGは私の中におらず、ただ民生がいたのであります。
民生は私の中で、銀魂のエンディング「遠い匂い」を歌って、銀杏BOYZの「東京」をカバーしながら、その傍らで相席食堂のテーマソングを作っていた存在でした。
ところが実は、似たようなグラサンのオッサンがもう一人いたのであります。
先日、私は引っ越しをしました。
良いマンションでとても気に入っています。
休日は最高ですが、仕事がどうにもいけない。
いろいろな仕事が滞っており、参ってしまっています。
こういう場合は地道に一つずつ終わらせていくより他ないのでしょうが、わかっていても手がつかない。
平日は何やら慢性的に体調が悪い。動悸がする。
しかし、手がつかなければ自分の首を絞めるばかり。
メンタルをコントロールして仕事をするように仕向けなければいけません。
もうそれについて考えたり、画像検索をして2人並んだ写真を見ている場合ではないんです。
どうでもいいことです。本当にどうでもいい。
呪い
私は旅行どきに風邪を引くことが多い。
普段からよく風邪を引くので、旅行どきに風邪をひいていることが多いのだ。
つまり、体が弱い。虚弱体質。雑魚人間である。
特に、冷えに弱い。ちょっと寒いな、という時間が長くあると、絶対に風邪をひいている。
ちょっと寒いな、というのもほんとに大した冷えではない。「冬」の方がずっと寒い。
何かしらの嫌な冷え方をしている時が危ない。
今回は、バスタオルで寝ていた時。部屋を締め切り、エアコンをタイマーにして寝たので、当然明け方には灼熱ムシサウナとなって目が覚める。その時よくなかったのが、エアコンと扇風機をつけて二度寝した。
たしかに灼熱ムシサウナ問題は急速に解決したが、あまりにも冷え過ぎた。
そして起きた後も、微弱なエアコンがなんとなく肌寒いなと感じる程度の違和感を感じながらエアコンを切ることがなかった。
そしてその晩には38度の熱が出ることとなる。
たった一度の判断の誤りが及ぼす影響が多すぎる。
ちょっと熱が出て終わりにしてくれ。
3日間38度はあまりにも辛い。
病は気からというが、無理である。どんなに旅行が楽しみで、何クソ気合いで治すんだという気持ちでいたとて、絶対に治らん。
過去に同じような状況になってパリ旅行を断念している。パリが無理なら何も無理だ。風邪で無駄になった旅費だけで車が買える。