脳内海賊王と「よつばと」のとーちゃん
私は目標が嫌いだ。目標は、何もしないままでは達成できないからだ。私は基本的に頑張るのが嫌いであった。
今できないことをできるようになったり、今ないものを手に入れたりするのは大変だ。
一方で、そういうことをしていない生活を、無為とか空虚と呼んだりする。
私は無為とか空虚がどちらかといえば嫌いじゃない方だと思っていた。
まあ、嫌いではないのはそうだが、目標をもって生きてこなかったかというとそうではなかったのだと気づいた。
そう聞くと、いかにも自分らしくなく、気持ち悪いことを語り始めそうで今にも逃げ出したくなる空気が漂うが、想像するような意味ではない。
私はライフステージごとに「こうありたい」という理想像を無意識に持っていた。
さらに、その理想像に憧れ続けることが、あろうことか生きる活力となっていた。ということに気づいた。
その構造は、「夢を追い続ける」ことで理解不能な量のエネルギーを発電する脳内海賊王の輩と全く同じである。
私は彼らのことを違う銀河の住人かのように理解不能な対象として置いていたが、私も同じ発電法で生きていたのである。
彼らとの違いは、その追求している「夢」が世間一般「映え」しないという点においてだけである。
私は「よつばと」の「とーちゃん」になりたかった。
白Tシャツに毎日同じジーンズ、秋になるとカーディガンを羽織って、家で仕事をし、童心を忘れずに、ただ日常を過ごす大人に憧れていた。
そして、今、私は、気づけばほとんど「よつばと」のとーちゃんになっていたのである。
とーちゃんとなり、夢が叶ってしまった私は、生きる活力を失ったかに思えた。
しかし私にはもう1人、憧れていた大人がいた。
それは大学生の時に通っていた目医者のおっさんである。熊のような見た目をしていたので、通称、熊のおっさんと呼んでいた。
熊のおっさんは、私の目を診察をする傍ら、患者が来ない時はこうして本を読む生活が好きなんだと、森鴎外の「雁」を取り出して見せた。
その診察室は日当たりが良い一階で、窓からは大学キャンパスの並木が見えた。
その空間に私は憧れた。
そもそも私はアカデミックな空間に身を置くことを一途に憧れていた。
それは漫画「コレクターズ」の「忍」であり、パリの「カルチェ・ラタン」であり、昭和の「文壇」や「サロン」であった。
次はどういった形であれ、その夢を叶えることを思い続けることで生きていく。