価値論
私が芸術家にアコガレている話は何回かここでも書いた。
アコガレというのは「そう成りたい」という欲求のことであるといって間違いでないが、その本質はもう少し複雑だと思う。
人が誰かに「アコガレる」時、その人はその誰かに「価値」を見出しているといえる。
「価値」とは、市場において求められる特徴のことである。
つまり、アコガレとは、その人を「欲しい」と思うことと同じである。
欲しいと言っても肉体的に所有権を獲得したいというわけではない。
イチローにめちゃめちゃ憧れている野球少年であろうとも、イチローの肉体を家に置いておきたいかというとそうではないはずである。あんなヒゲオヤジ居ても邪魔である。
少年はイチローの天才的野球センスやサイコな言動、くそダサTシャツなどに魅力を感じ、自分もあんなふうになれたらと思い、憧れを抱くのだ。
しかし私はそれほどイチローに憧れない。それは、私の価値観では、野球がメッチャ上手いサイコという特徴を自分の中に取り入れたいとそれほど思えないからである。
以前、面接を受けたベンチャー企業の社長に、最も価値があると思う人はどんな人かと尋ねたところ、「向上心のある人」と答えた。
これはただの、会社が大きくなるために必要な、新入社員の特徴である。
私が聞きたかったのは、社長個人が価値を感じる人間である。社長はどんな人間なのか?ということが知りたかった。
だが、こうも考えられる。
この社長にとっては、「会社を大きくすること」が一番の価値であると。
きっとあの社長が憧れる人物は「孫正義」とかそんなんだろう。私はあんなハゲ嫌である。しょうもないオトコ。
また、友人に同じことを尋ねたら、「人に一番優しくできる人」だと答えた。
こっちのほうがずっと解る。素敵である。
私が最もアコガレる人物は「宮崎駿」であり「フレディ・マーキュリー」である。
しかし、私の向かう人生の一番の目標は、どちらかといえばその友人の価値のほうだ。逆に、彼は私のほうの価値のことを実現に向けて実際の人生を踏みしめている。
どちらも私にとっては価値のあることだ。
アコガレというのは「そう成りたい」という欲求のことであるといって間違いでないが、その本質はもう少し複雑だと思う。
人が誰かに「アコガレる」時、その人はその誰かに「価値」を見出しているといえる。
「価値」とは、市場において求められる特徴のことである。
つまり、アコガレとは、その人を「欲しい」と思うことと同じである。
欲しいと言っても肉体的に所有権を獲得したいというわけではない。
イチローにめちゃめちゃ憧れている野球少年であろうとも、イチローの肉体を家に置いておきたいかというとそうではないはずである。あんなヒゲオヤジ居ても邪魔である。
少年はイチローの天才的野球センスやサイコな言動、くそダサTシャツなどに魅力を感じ、自分もあんなふうになれたらと思い、憧れを抱くのだ。
しかし私はそれほどイチローに憧れない。それは、私の価値観では、野球がメッチャ上手いサイコという特徴を自分の中に取り入れたいとそれほど思えないからである。
以前、面接を受けたベンチャー企業の社長に、最も価値があると思う人はどんな人かと尋ねたところ、「向上心のある人」と答えた。
これはただの、会社が大きくなるために必要な、新入社員の特徴である。
私が聞きたかったのは、社長個人が価値を感じる人間である。社長はどんな人間なのか?ということが知りたかった。
だが、こうも考えられる。
この社長にとっては、「会社を大きくすること」が一番の価値であると。
きっとあの社長が憧れる人物は「孫正義」とかそんなんだろう。私はあんなハゲ嫌である。しょうもないオトコ。
また、友人に同じことを尋ねたら、「人に一番優しくできる人」だと答えた。
こっちのほうがずっと解る。素敵である。
私が最もアコガレる人物は「宮崎駿」であり「フレディ・マーキュリー」である。
しかし、私の向かう人生の一番の目標は、どちらかといえばその友人の価値のほうだ。逆に、彼は私のほうの価値のことを実現に向けて実際の人生を踏みしめている。
どちらも私にとっては価値のあることだ。