語りえぬもの
これは金にならない勉強をさせるという噂の文学部とかいう碌でもない学部の講義で習ったことです。
「心」とは、抽象的思考を言語表現しようとする時に、言い表わし切れぬ処にある。
フロイトとかいうエロ親父が言っていたらしい。
だからなんだという話ですが、私はひどく納得しました。
こうして死ぬまで生きようとしていると、言い表わし切れないことは多くあります。
それを表現してくれるのは、私にとって音楽であったり絵であったりすることが多いです。
フロイトと対立する心理学者として有名なのがユングですが、その人の提唱したものが集合的無意識です。
みんな違うように見える誰もが心の奥底では同じ感性・イメージを共有しているというようなことです。
これについてもその存在を常々感じるところがあります。
教授によればその表現の典型が村上春樹であるらしく、あれは登場人物らそれぞれが主人公と同じイメージを共有しているという前提のもと話が進んでいくもので、またそのイメージは読者にとっても共有されるものであると同時に気持ちの良い類いのものでもあるのでなんだかイイ小説のような気がするのであると。
たしかに集合的無意識を感じることがあること自体は私自身否定し得ぬところですが、それが気持ち悪いという立場も解ります。
個を貫いた無頼の思想には心を焦がすタチでありますので、そういう未来を見つめないような雰囲気の快楽には身を委ねずにありたいものです。
何でもそうですが、見つめることは勇気が要ります。
私などは、人とご飯を食べる時もなるたけ向かい合う席には座りたくないもので、できれば隣り合い、同じ方向を見つめる方が楽な性分です。
「見つめ合うこと」と「同じ方向を見つめる」ことの差異について、小学生ぐらいの頃に観たアニメ「ちびまる子ちゃん」のお話で扱われていたことがあったのですが、今でもよく覚えています。
こういう、なぜか忘れないことには、何か意味があるのでしょう。
人は、見つめるということを、何か退っ引きならない事情がなければしないのではないかと思います。
人間が成長する時というのは、(成長という言葉も得体の知れないものですが)得てしてなんだか面白くない時であると思います。
成長というのは新しい世界を見た瞬間とでも言えるかもしれません。
面白くない時でもなければ新しい世界を見ようとしないからです。
感覚の共有に浸って気持ち良くなるのはその場凌ぎでしかないのではないかと思います。
やはり面白くない現状を打破するには、未来に目を向けて、語り得ぬものどもをどうにか語り得るものにしようと努力する方が、健全な気がします。
目前に控える就職活動を思うと憂鬱です。
何か適当な仕事に就いて、休日に楽しみを見出し生きていくことはきっと私にも可能だろうということはわかりました。
ほとんどの人はそうして生きているのです。
でも仕事終わりのビールがないと生きられない人生はなんだか怖い。
一度そうなったらきっともう二度と新しい世界には出会えない。
この「もう二度と」ってところが怖いのでしょう。
楽しい時はあるけれど、それはよく言う「生きてるって感じがする」って時とは違う気がします。
まったくよくわからんことばかりです。
結局よくわからんから怖いのです。
わかってしまえば今と同じように生きていくのだろうと、そういうような予感はしています。
「心」とは、抽象的思考を言語表現しようとする時に、言い表わし切れぬ処にある。
フロイトとかいうエロ親父が言っていたらしい。
だからなんだという話ですが、私はひどく納得しました。
こうして死ぬまで生きようとしていると、言い表わし切れないことは多くあります。
それを表現してくれるのは、私にとって音楽であったり絵であったりすることが多いです。
フロイトと対立する心理学者として有名なのがユングですが、その人の提唱したものが集合的無意識です。
みんな違うように見える誰もが心の奥底では同じ感性・イメージを共有しているというようなことです。
これについてもその存在を常々感じるところがあります。
教授によればその表現の典型が村上春樹であるらしく、あれは登場人物らそれぞれが主人公と同じイメージを共有しているという前提のもと話が進んでいくもので、またそのイメージは読者にとっても共有されるものであると同時に気持ちの良い類いのものでもあるのでなんだかイイ小説のような気がするのであると。
たしかに集合的無意識を感じることがあること自体は私自身否定し得ぬところですが、それが気持ち悪いという立場も解ります。
個を貫いた無頼の思想には心を焦がすタチでありますので、そういう未来を見つめないような雰囲気の快楽には身を委ねずにありたいものです。
何でもそうですが、見つめることは勇気が要ります。
私などは、人とご飯を食べる時もなるたけ向かい合う席には座りたくないもので、できれば隣り合い、同じ方向を見つめる方が楽な性分です。
「見つめ合うこと」と「同じ方向を見つめる」ことの差異について、小学生ぐらいの頃に観たアニメ「ちびまる子ちゃん」のお話で扱われていたことがあったのですが、今でもよく覚えています。
こういう、なぜか忘れないことには、何か意味があるのでしょう。
人は、見つめるということを、何か退っ引きならない事情がなければしないのではないかと思います。
人間が成長する時というのは、(成長という言葉も得体の知れないものですが)得てしてなんだか面白くない時であると思います。
成長というのは新しい世界を見た瞬間とでも言えるかもしれません。
面白くない時でもなければ新しい世界を見ようとしないからです。
感覚の共有に浸って気持ち良くなるのはその場凌ぎでしかないのではないかと思います。
やはり面白くない現状を打破するには、未来に目を向けて、語り得ぬものどもをどうにか語り得るものにしようと努力する方が、健全な気がします。
目前に控える就職活動を思うと憂鬱です。
何か適当な仕事に就いて、休日に楽しみを見出し生きていくことはきっと私にも可能だろうということはわかりました。
ほとんどの人はそうして生きているのです。
でも仕事終わりのビールがないと生きられない人生はなんだか怖い。
一度そうなったらきっともう二度と新しい世界には出会えない。
この「もう二度と」ってところが怖いのでしょう。
楽しい時はあるけれど、それはよく言う「生きてるって感じがする」って時とは違う気がします。
まったくよくわからんことばかりです。
結局よくわからんから怖いのです。
わかってしまえば今と同じように生きていくのだろうと、そういうような予感はしています。