尾ひれ100%ブログ

服に7つのシミを持つ男プレゼンツ

卒論アトガキ

何がしたいのか。

思うに、独自の実感に飢えているのだ。

ひとまず卒論を書き終えた。4万字というボーダーは苦痛だったが、案外楽しく書いていた。

私の卒論がひどい出来に見えるのは、論証に対する丁寧な姿勢と体系的な構成を組む能力の欠如、つまり怠惰ゆえである。

しかしそれも「やる気があればできた」というような性質でもなく、マトモな卒論を書こうとすれば中学3年から人生やり直す必要がある。

それに、だいたいの人は中学3年生からやり直せば立派な卒論も書ける。

そもそも立派な卒論を書く気はなかった。

私は自分の考えたことを誰にも分かるように伝えることに、やる気を見出せたことがあまりない。

たしかに、論理的な文章で、きちんと出典を明記して、誰もが議論に参加できるようにすることは、意義があると思う。

そういうことは楽しいことだと思うからだ。

しかし4万字のソツロンとなると、考えることがあまりに複雑で、というか多いし、4万字って何だ、という気持ちだし、要するにめげてしまう。

きちんとしたものを書きたかった。だがそれをするには今までゲームに捧げた時間を全部図書館で過ごす必要があったので無理だ。私はスマブラをしたい。

ソツロンでなくとも、自分で考えることに他者の考えを取り入れたいと感じる機会は多い。

そのためにはどのような場面であれ、表現の必要がある。むしろ表現がその必要から生まれる。

私は昔から作家とか画家みたいに自分の世界を表現する人々にアコガレを抱いてきたものだが、真にしていたいのは“自分の世界を持つ”ということのほうであるかもしれない。

それは言い換えれば、生身の感触を得るということだ。

私はヨーロッパ旅行の折、根暗なので関わり合いを要するアクティビティを嫌い、一人で有意義を感じられる美術館を好んでよくまわった。

画家の名前など、ギャグマンガ日和で覚えたモネとセザンヌしか知らないので、ただ絵を観る。

その時心惹かれたのは、作者も知れぬ中世の絵画が多かった。

それらは全部、パースは不自然だし、人間の顔も無表情で寝ボケたような目をしており、なんだか不気味である。

だがこれは単に当時は遠近法が確立してなかったからというだけの話ではない。これら”不気味“な絵画を描いた感覚が、現代の我々が絵を描こうとする時に用いる感覚から完全に隔絶しているからである。

児童の描く絵は、大人のそれとはかけ離れているが、それでもこのような不気味さは持ち得ない。それは多くの児童の用いる感覚は、我々の共有するこの世界によって育まれているからであり、したがって完成する絵も我々の感覚の範疇でしかないからである。

それでも一部独自の感覚でしか世界を見られない者があり、彼らの表現したものが芸術となって世に見られるのである。

中世の絵画が芸術的に映るのはそのためだ。

ところで、世界を人と同じように見られないというのは、ビョーキである。ゴッホムンクは現代的に言えば、統合失調症だったという。

しかしゴッホムンクでさえも、今や手アカに塗れてその独自性が埋もれてしまっている。

ゴッホの独特なタッチは我々が日常で目にするあらゆるデザインの参考にされたであろうし、
あまりに有名になりすぎた「叫び」の悲哀と狂気は既に抽象化されて至る所で表現されているはずであり、もはや純粋な眼で鑑賞することは困難だ。



社会的であることとは、誰かがつくった世界の見方に従い、そのように生きることだ。

誰かが、というのは不完全な言い方である。それは我々の生活のあらゆる機会で植え付けられている。

小学校では、授業の内容だけでなく、教室で使われる机と椅子、昼休みの時間、廊下を走ってはいけないことが、我々をある「見方」に寄せる。

スマブラを買って3日でプレイ時間が20時間を超えたこと、最近めちゃめちゃ臭いオナラが出ること、私の一挙手一投足はほとんど何かに支配されいていて、自分で選んだ自分などどこにもない。

私はそうあらないこと、ビョーキであることにアコガレを抱く。

自分だけの感覚で世界を見たい。

それができて初めて「現実」を見ることができると思う。

アーメン


参考

イメージ 1

スイスのどこかの美術館にあった絵。