あの娘 乗せた翼 夜空へ消えてく
留学生活もあとお米10kgも食えば終わりである。
今日の7時までにプレゼンのスライドを提出しなければならなかったが、いつもながらすこぶるやる気が出ないので、今日はアイルランドへ来た時のことを思い出してみよう。
あれは暑い夏の日のことだった。
日本を発つ日が近づくにつれ、みるみるうちにブルーが入っていき、渡航前日のおれはアバターのような顔色をしていたことと思う。
大好きなスプラトゥーンもいよいよ手に付かなくなり、夏の夕暮れ空を眺めるばかりであった。
ああ、日本の夏!それには何物にも代え難い愛すべき哀愁がある。
おれは今、どこに旅行へ行きたいかと問われれば、日本の地方各地と答えるだろう。
もちろん、日本へ帰る前に欧州をいろいろ観て回ることはするであろうが、ホントは別に行きたくも何ともないんである。
ではなぜ旅行するかといえば、なんだかもったいないような気持ちに駆られてとか、ほかには「見聞を広めるため」という曖昧微妙な理由によるものでしかない。
たしかに見聞を広め、感受性を磨くことは大事である。それは人間性の洗練そのものだからである。
とはいえ旅行をすることでその人の人間が洗練されるかどうかは誰かが保証し得るものでもない。
そうなれば、血反吐を吐く思いで朝早くに空港へ行く、あの旅行の度にする苦労を思うと、もうおれは何のために旅行へ行くのかいよいよわからなくなってくるのだ。
要するにおれは変化が嫌いなのである。髪の毛を切るのが面倒なのである。
できることなら物言わぬ石になりたい。
ということで、ひきこもりの安寧は完膚なきまでに破壊され、おれは見知らぬ土地へひとり放り出されたわけである。
これは山梨で撮られた生前の矢吹氏の写真である。
空港行きのバスを待つ間、最後の散歩を楽しんでいるようだ。
まるで戦争に赴く若者である。
見送りの母と弟に今生の別れを告げ、成田行きのバスは出発した。
他にお客さんはほとんどいなかった。
空港に着き軽く一迷いしてから、ホテルへシャトルバスで向かった。
日も暮れてしまい、こみ上げる寂しさのあまり具合が悪くなっていた。
このまま沖縄あたりにチョコっと行き、素知らぬ顔で帰ってこれたらどんなに良いだろうと思った。
もうあんな思いは二度としたくないものだ。
最後の晩餐に何かグレートなものを食おうと思って空港へ戻ってくると、山田とたけぞうから連絡があって、最後に飯を食うことになった。
彼らはおれのスーパー数少ない大学の友人で、二人ともおれが2年生の時に留学していた奴らである。
最初は馬場まで来いなどとトンチンカンなことをぬかしていたが、最終的には成田と馬場のおよそ中間地点である「公津の杜駅」という、普通に生きていたらまず下車することのなさそうな意味不明な駅で落ち合うというところまで譲歩させた。
待ち合わせ時間よりだいぶ早く着いたおれは、ケータイが使えないという不安な状況の中、意味不明な駅前で閉店間際のショッピングセンターを覗いたり、コンビニでうんこをしたりと落ち着かなかった。
塾帰りらしき女学生がたくさん居たので、彼女たちのあれ程までに変わらない日常と、今日と明日ではっきりと何かが変わる自分を照らし合わせて切なくなったりした。
蒸し暑い夜だったが、おれはジャケットを着ていた。
到着した彼らはまずおれの髪型を見て爆笑し、久しぶりの再会を喜んだ。
寿司は、田舎特有のバイパス沿いにあるくそでかいはまずしで食べた。
隣にはなぜかラーメン山岡屋があった。
ラーメン山岡屋とは、山梨で知らない者はいないほどの、くっさいラーメン屋である。
その臭さたるや、店の前を車で通り過ぎるだけでドライバーを失神させるほどのものである。
その臭さが、好きな人にはウケるらしい。ほんとうに理解に苦しむ。
なぜその山岡屋があんなところにあったのかは不明である。
終電で帰るつもりだった彼らは、帰るのが面倒になったと何やらごねだし、結局おれの泊まるホテルへ来ることになった。
彼らは中国人団体客に紛れて難なくおれの部屋まで侵入することに成功した。太い奴らである。
そしてその晩執拗におれの睡眠を妨害し、朝はテレビでヒカキンの動画を見たりしていた。
完全にくそ野郎どもだが、おれが逆の立場だったら絶対そうするし、楽しくて仕方なかったろうと思う。
彼らは空港まで見送りに来てくれた。
そして一緒の飛行機に乗る同じ早稲田生と顔を合わせても、イマイチ話しかけないおれをやきもきして見守っていた。
あの時やまだは「緑色のキャリーケースの子かわいいから話しかけろよ!!」とLINEを送ってきていたが、その子は完全に彼氏が見送りに来ていたのだった。
見送りしてくれたことにはとても感謝している。幾分か気が紛れた。
2016年8月26日、公津の杜駅にて。