ロンドン一日目
3月3日にロンドンへ行ってきた。そう、ひな祭りを祝いにである。
丸々三日間、主要な観光地に凡そ目もくれず、ただひたすらに古着屋を回りまくるという脳ミソがない旅行であった。
例によって旅行に関するすべての準備を渡航前夜に始めたので、当然のように徹夜状態で家を出ることになり、機嫌が最悪に悪かった。旅行特有のワクワク感は皆無で、正直三日間ぐらいひきこもりたかった。
ちなみにその夜はルームメイトのロバート秋山が誕生日だったらしく大々的なパーティーが開催されていた。
その時は過酷な渡航準備のために祝福の感情が完全にゼロだったので、料理をしているところへサッカーボールが飛んで来た時は灼熱のフライパンで主役の顔面を殴打してしまったとかそういうことはないが、今思うとやや大人げない対応をしてしまった。
一人旅とはいえ、ロンドンへ服を買いにいくのにダサいバックパックと運動靴を身に着けて行くわけにはいかない。
迷ったが、重厚すぎる革のボストンバッグとペラペラのしょぼい革靴の装備を強行した。結果的に不都合しかなかったが、止むを得なかった。矢吹氏はカタチから入らないと打ち所が悪ければ最悪死ぬのである。
空港行きのバス、飛行機には問題なく乗れた。
利用したのはお馴染みの爆安航空会社ライアンエアー。着陸成功を祝福するファンファーレの機内放送がお茶目である。
爆安なので降ろされる空港も得てして相応なところである。今回玄関口となったのはルートン空港。パリのボーヴェ空港の規模が笑っちまうぐらいしょぼかったので、それに比べればなかなかちゃんとした空港だった。
着いた時の天気は雨。空港から市街へはまず国鉄の駅までシャトルバスで移動、そこから40分ほどであったか。
そういえば、シャトルバスの発着地を教えてくれた空港職員は片目が義眼であった。いきなりなんてパンクな国なんだと思った。
まず訪れたのはカムデンタウン。映画「けいおん!」で澪ちゃんが「ロックっぽい服とかあるらしい」と言っていたのはたぶんここである。
駅のコインロッカーを当てにしていたため、クソデカバッグはそのままにやってきたがロンドンには防犯上の理由からコインロッカーの類が一切存在しないことを知って絶望をした。大きい駅に荷物預り所があるのみである。
ここがカムデン・ロックマーケット。ガイドブックを見ている赤いマフラーの女の子がぼくである。
このマーケットは正直おもしろくなかった。
観光地としての色が強く、事前に聞いていたロック・パンクな雰囲気は微塵も感じられなかった。
スーツにモッズコートを羽織り、めちゃめちゃにライトを付けたくそださい改造スクーターに乗っている奴らでにぎわっていると思ったのに、期待外れも良い所であった。
観光地として友達と来ればそれなりに楽しかったに違いないが、天涯孤独の矢吹氏にとって周りの環境との温度差は堪えるものがあった。
一応昼過ぎまでウロウロした後、カツ丼もどきを食べてカムデン・ツアリストマーケットは後にして、すぐ近くにあるステイブルズマーケットに移動した。
まだマシではあったが、テンションがだだ下がっていたのでここも「くだらんくだらん!」と言いながら駆け抜けたのみだった。
この二つのマーケットで半日時間を費やすつもりだったので、完全に時間を持て余した矢吹氏はとりあえずホテルのほうへ向かうことにした。
すると乗り換えの駅でたまたまナショナルミュージアムの看板を見つけたので行くことにした。旅行で予定に迷ったら美術館や博物館に行っとけば大体満足できることを矢吹氏は知っていたのだった。
博物館は思っていた四十七倍立派で、手前の広場には巨大なライオンの銅像、くそでかい塔、親指だけめちゃめちゃ長いグッドサインの銅像などがあり、テンションが上がってしまった。
ビッグベンが見えた。
写真を撮り終え、意気揚々とエントランスへ向かうとおれの荷物がくそでかかったために入場を断られてしまった。
しかしその時は機嫌が良かったので、「かまわんかまわん!」と良い笑顔で手荷物預かり所の場所を訊き、もう既に閲覧を終えたかのように満ち足りた表情で駅のほうへ向かって歩き出した。
道中では有名な赤い電話ボックスをいくつも見かけた。ロンドンの都会的な雰囲気に触れ、この時初めてロンドンに来たことを実感した。
何がカムデンマーケットか。おれみたいなのは黙ってガイドブックに載ってる観光地へ行っとけば楽しいのである。
ところが駅にある荷物預り所に行くと値段が3時間以内でも6ポンドとわりと良い値段するので、少し迷った結果やはり一度ホテルに荷物を置いて半日自由に観光しようということになった。しようということになったと言うと誰かと相談してそういうことになったかのように聞こえるが、もちろんその時もおれは孤独の人であった。
この判断は結果的に間違っていた。
というのも、ホテルまでの電車を乗りこなせなかったのである。ホテルに着く頃にはもう夕方であった。
まったく情けない話である。
その"乗りこなせないぶり"も情けなかった。
この図を見てくれ。
私が乗った駅は左上の「Cannon Street」である。そして目的地は右の赤マル「Charlton」、ここへ青線の電車で行こうとする。しかし気づいたらおれは「New Cross」にいた。
情報処理能力2のおれは任意の青線の電車へ闇雲に飛び乗ったので、それが途中で本意でない方向に行くことを知らなかった。
「New Cross」に停まったときに「これは違うやつだな」と思って降りた。さすがは早稲田大学である。洞察力と判断力にかけては世界レベルと言ってよい。
そして駅員にチャールトン駅への行き方を尋ねた。
一度ロンドンブリッジあたりまで戻ってまたチャールトン方面のものに乗り換えるのが良いだろうと想定していたが、降りたのと同じホームから同じ方向の電車に乗れと言う。
信じがたかったので、ホームで待っている地元民らしき女の子に、このホームからチャールトン駅には行けるかを訊くと、答えて「行けないと思う」とのことだった。
この時点で矢吹氏は深い人間不信の谷へ落ちてゆきかけたが、気をしっかり保って考えを巡らせた。
結果「おれは行けないと思う」という意見がまとまり、多数決により「このホームからチャールトン駅へは行けない」という結論が打ち出され、駅員に指定された電車を見送り、事務所まで戻って同じ質問をしてみた。すると答えは同じであった。
思えば地元の駅員と初めてロンドンにやってきた東洋人の意見を同等の一票として扱う前提に凄まじい欠陥があったことは否めないが、その時のおれは駅員を信じられずにいた。
歩道橋を渡り、また同じホームに戻って先ほどの女の子にその旨を伝えると彼女もよくわからんというようだった。
おれもよくわからんので大人しく専門家である駅員の主張を尊重することにした。
ちなみに女の子にスマホで乗り換え案内を検索してくれないかお願いしたところ、ケータイが古すぎるためインターネットが使えんのよと言っていた。
そして塗り絵か何かわからないが、ノートに描いてある細密な絵に色を塗っていた。
面白そうな子だったが、あんまり要らんことを話しかけると不審な軟派男として通報されるかもしれないので、いろいろ詮索はしなかった。
結局チャールトン駅へは駅員の指示通りの電車に乗れば辿り着くことができた。
しかしその道程というのが、下図のような恐ろしい遠回りで、泣くほど時間を食い、その日はもう市街に戻ることができなかった。
徹夜明けだったので早めに寝ることができたのはよかったかと思う。
そういえばホテルはケチって郊外の風呂トイレ共有のものにしたのだが、驚くべきことにバスタブがあった。
しかしお湯が尿漏れ程度の勢いでしか出ないために、湯を張るということができず、一時間ぐらいかけてやっと寝そべった体の七割が浸かる程度までにしかならなかった。
それでも久しぶりに風呂に浸かれてうれしかった。