あとがき
第一、私は文学部で日本文学を専攻していながら、小説というものがあまり好きではなかった。
物語世界がもたらす感情の揺らめき自体は、現実世界では体験し得ないものとして、価値あるものと思うし、好きである。
しかし、いかんせんまどろこしい。感情の揺らめきを体験するのであれば、映画や音楽の方が早い。感情は肉体的なものであるので、映像や音で感じた方がわかりやすいのは道理である。
小説世界ならではの感動というものが、ないはずはない。休日の朝方、コーヒーをすすりながら、片手で広げるためだけに文庫本が生まれたと考えるには、この世に本屋が多すぎる。
言葉は、感情よりも論理を司るものだと思う。
感情を表現する言葉は、詩で良い。
だから、私が小説を書こうとするならば、その時は「一発当てよう」という動機によって書かれることが間違いない。
すなわち、人の感情を動かせるのではないか、と思うに足る空想世界を恥知らずにも思い付きながら、映画や音楽を作るにはやる気も才能もないと知っている場合である。
好きな小説。
読了できた小説自体がそもそも人より少ない。その辺のスポーツ科学部出身より少ないであろう。
思えば、小学生の頃はよく小説を読んでいた。
それも、「ダレンシャン」などではなく、もっと硬派な古典文学である。
初めて図書館で読んだ小説、不思議と覚えているものである。これが私を読書根暗ボーイへと誘った問題作、「十五少年漂流記」である。
内容はよく覚えていないが、とにかく面白かった記憶がある。
他には、HGウェルズの「タイムマシン」。この小説は何気に結構覚えている。
読みながら空想した未来人の姿は、ファーヴィー人形のエディットだった。
私が借りたであろう本は、表紙のイラストも素晴らしくて、点描で描かれたような芝生殺風景だったように思うが、それがまた未来世界の奇妙な静けさと不安をかき立てた。
あと読んでいたものといえば、「怪人二十面相」や「怪盗ルパン」だった。
この辺りはほぼ惰性であり、初めに借りた者だけが手にできる栞目当てだったことが否めない。
小学生が中学生になって、本を読むことはほとんどしなくなったように思う。
違法サイトでダウンロードした音楽を聴いたりしていた。それも、「GReeeeN」とか銀魂の主題歌とか、しょうもないものである。本当に何にもならない。
以後、小説らしい小説は読むことがなかった。漫画は結構読んでいた。
「おやすみプンプン」や石黒正和作品は文学の側だと思う。
そういうことで、大学も文学部を選んだ。
そこで小説にまた対峙せざるを得ない環境に置かれるが、どうにも面白くない。
面白かったのは「四畳半神話体系」ぐらいだが、あれはアニメの方が数倍面白い。
坂口安吾も面白いのはエッセイであって小説ではない。
「桜の森の満開の下」や「夜長姫と耳男」はエモいが、それは安吾イストの贔屓目が否めない。
昔は小説が面白かった。
否、小説はずっと面白い。私が小説を楽しめなくなった。
せっかちで、想像力を失った。
文字だからこそ見られる自分だけの世界がある。
きっとみんなそれを楽しんでいるのだろう。
私はもう、脳が退化して、感じることしかできない。
映画も、音楽も、感じるだけ。
極めて受動的。
小説とは、作者の綴った言葉を基に、自分が創り上げる物語世界である。
空想に耽ることもなくなった。
ただ、快か不快か。
快であれば、考えることはしないし、不快であれば、その問題解決について考えるだけ。
内省の終着点。
ある絶望に至った。
私が文学だと思って拠り所としていたものは、コンプレックスの慰み物でしかなかったのではないだろうか。
思えば私は、憧れによって動かされてきた。
独自の実感に飢えていると思っていたのは、憧れに対する諦めのポーズであった。
本当はそういう性質のものと対極の位置にある、誰もが憧れる存在にただ憧れながら、それには成れないとして、まだ近い、逆側の存在を目指しているポーズをしていただけだった。
私が真に「必要」と感じているのは、独自の実感ではなく、「社交性」である。
こんな恥ずかしいことがあるかい、と。
この世の語り得ぬもの全て、そして文学とか芸術、こと実存的な苦悩に限っては、「社交性」によって解決される。
この年になって社交性を育てるより、一人でエッセイを書く方が万倍楽である。
だから私は性懲りもなく、このブログを、中学2年生以来書いている。
社交的であることを諦め、芸術家に憧れ出して以来、社交性からは遠ざかり続けてきた。
もしくは、人との関わり合いに満足した人間がそれでも抱く苦悩を表現するためにあるのが芸術なのかもしれない。
ここが私の終着点。このコンプレックスが解消されなければ何にも至れない。
誰か次の道を教えてくれ。