あの夏へ
私はハンチング帽を愛用している。アイルランドで買ったものだ。
留学前、とち狂ってちんちくりんのゲキダサな髪型になってしまった私は、どうにか頭部のイガグリを隠蔽しようとしばらく帽子を被って生活していた。
初めはお父さんから没収した「パラダイソ」と書いてあるヘンテコなキャップを被っていたが、気候が寒くなるにつれ、手持ちの冬服に似合った帽子が欲しくなり買ったのが今使っている画家みたいな帽子である。
初めて見ると「やくみつるか?」と思われそうな一般的でないファッションアイテムではあったが、あれしか似合わなかったので仕方なかった。
ところで服の趣味は人それぞれだが、私としてはチェスターコートにニット帽やスニーカーを合わせるような一貫性のないコーデネートは許しがたい。
チェスターコートを着るならイギリス紳士みたいな帽子をかぶって粋な革靴を履くべきである。
ニット帽はスケボーとスノボーをするときだけかぶればいいのである。
だいたいニット帽は見た目がコンドームのようで卑猥である。
話を戻すと、私はやくみつる帽を買ったが、その理由はそれと黒いコートを合わせると文学者のようで、中原中也ふうで、カッコよかったからである。
ここである一つの疑念が生まれる。
やくみつるのような帽子をかぶり見た目を文学者ふうに装うことで、自己の同一性を文学者のそれに寄せようとはしていなかったか?
やくみつるのような帽子を被ったところで私は私である。文豪のような深遠なる人間性などが身につくはずもない。せいぜいクイズ番組にいっぱい呼ばれそうな雰囲気が身につくだけだ。
人間性で言えば私はむしろ俗なることこの上ないスーパー破廉恥漢でしかない。
恥を知らないばかりか常識も知らず、就活を前にムニャムニャとうずくまるばかりの弱虫である。
他にも世の中には自己の同一性を虚飾し得るキケンなモノがたくさんある。
一般にはブランドとかいうふうに呼ばれる。
権威づけられたものにオイソレと靡くべからずと己に強いて生きること四半世紀になろうとする私であるが、これまで重要な決断を迫られる時期ほどそのブランドとやらに勾引かされ、正常な判断をし損ねてきた気がしてならない。
たとえば学科選択の際にかっこつけて日本文学科を選んだばかりに、暗澹たる友人関係に陥り、演習がマジで苦痛になった。
私が日本文学を専攻したのは完全に格好をつけたと言って良い。
日本分学科は、早稲田の文学部で一番人気な、目玉商品なのである。
一回生の頃の私は第二外国語の成績が良かったのと、英語の演習の講師であるオマール・カーリンにめちゃめちゃ気に入られていたことによって今では考えられない恐るべき好成績を叩き出し、本来優秀な学徒しか入ることを許されないとされる日本文学科に迷いこんでしまったのだった。
ほんとうなら私などは早稲田文学部における出来損ないの吹き溜まり、やまだくんやふかいしくんのいる教育学科に掃いて捨てられるべき存在だったのである。
でなければ自らの嗜好に従い、あさひ嬢やるいくんのいる社会不適合者の吹き溜まりこと哲学科にすごすごとその汚いケツを収めるべきであった。
とはいえ今更過ぎたことを悔いて他学科の友人のわるくちを言っても何にもならない。
いつだって考えるべきはこれからのことだけである。
大学4年間をひたすら無為に過ごした私はこの就職活動をどう乗り越えるか。
いざこれからのことを考えようとすると、途端に押し黙ってしまうのは不思議だし、やりきれない。
留学前、とち狂ってちんちくりんのゲキダサな髪型になってしまった私は、どうにか頭部のイガグリを隠蔽しようとしばらく帽子を被って生活していた。
初めはお父さんから没収した「パラダイソ」と書いてあるヘンテコなキャップを被っていたが、気候が寒くなるにつれ、手持ちの冬服に似合った帽子が欲しくなり買ったのが今使っている画家みたいな帽子である。
初めて見ると「やくみつるか?」と思われそうな一般的でないファッションアイテムではあったが、あれしか似合わなかったので仕方なかった。
ところで服の趣味は人それぞれだが、私としてはチェスターコートにニット帽やスニーカーを合わせるような一貫性のないコーデネートは許しがたい。
チェスターコートを着るならイギリス紳士みたいな帽子をかぶって粋な革靴を履くべきである。
ニット帽はスケボーとスノボーをするときだけかぶればいいのである。
だいたいニット帽は見た目がコンドームのようで卑猥である。
話を戻すと、私はやくみつる帽を買ったが、その理由はそれと黒いコートを合わせると文学者のようで、中原中也ふうで、カッコよかったからである。
ここである一つの疑念が生まれる。
やくみつるのような帽子をかぶり見た目を文学者ふうに装うことで、自己の同一性を文学者のそれに寄せようとはしていなかったか?
やくみつるのような帽子を被ったところで私は私である。文豪のような深遠なる人間性などが身につくはずもない。せいぜいクイズ番組にいっぱい呼ばれそうな雰囲気が身につくだけだ。
人間性で言えば私はむしろ俗なることこの上ないスーパー破廉恥漢でしかない。
恥を知らないばかりか常識も知らず、就活を前にムニャムニャとうずくまるばかりの弱虫である。
他にも世の中には自己の同一性を虚飾し得るキケンなモノがたくさんある。
一般にはブランドとかいうふうに呼ばれる。
権威づけられたものにオイソレと靡くべからずと己に強いて生きること四半世紀になろうとする私であるが、これまで重要な決断を迫られる時期ほどそのブランドとやらに勾引かされ、正常な判断をし損ねてきた気がしてならない。
たとえば学科選択の際にかっこつけて日本文学科を選んだばかりに、暗澹たる友人関係に陥り、演習がマジで苦痛になった。
私が日本文学を専攻したのは完全に格好をつけたと言って良い。
日本分学科は、早稲田の文学部で一番人気な、目玉商品なのである。
一回生の頃の私は第二外国語の成績が良かったのと、英語の演習の講師であるオマール・カーリンにめちゃめちゃ気に入られていたことによって今では考えられない恐るべき好成績を叩き出し、本来優秀な学徒しか入ることを許されないとされる日本文学科に迷いこんでしまったのだった。
ほんとうなら私などは早稲田文学部における出来損ないの吹き溜まり、やまだくんやふかいしくんのいる教育学科に掃いて捨てられるべき存在だったのである。
でなければ自らの嗜好に従い、あさひ嬢やるいくんのいる社会不適合者の吹き溜まりこと哲学科にすごすごとその汚いケツを収めるべきであった。
とはいえ今更過ぎたことを悔いて他学科の友人のわるくちを言っても何にもならない。
いつだって考えるべきはこれからのことだけである。
大学4年間をひたすら無為に過ごした私はこの就職活動をどう乗り越えるか。
いざこれからのことを考えようとすると、途端に押し黙ってしまうのは不思議だし、やりきれない。