死んでる時間
死にたいと言う時、本当に死体になりたいと思って言う奴はいないだろう。
要は生きるのを辞めたいのである。
人は生きながらに死ぬこともできる。
現実逃避の時間がそうだ。ベッドに横たわってそれほど見たくもないYoutubeの動画を何時間も見ている時、おれの存在は道端に落ちている石と同等である。
しかし、心臓が動いている以上、また人間に戻らなければならない。
それが嫌だからいっそ死んでしまいたいと思う。
生きる活力とは希望である。
まだしたいことがあれば生きたいと思う。死にたい奴は、したいことがないから生きたくない。もしくはできないと思っておる。
もしも本当にしたいことがない、あるいはしたいことが絶対できないのだったら、死んだ方がいい。つらいだけである。
だが人間はそういうふうにはできていないはずだ。いや、逆に誰もそういうふうにはできていないかもしれない。
いずれにせよともかく、希望は見出せる性質のものなので、多くの場合は死んだ方がいい奴なんてそうそういないのが現実である。
だから、植物人間になったり、何か重度の障害を負った場合は正直死んだ方がいいんじゃないかと思ってる。
あまりに希望がない。
そういうこととは別に、生きる歓びというのが本当にあるのだろうか。
物言わぬ草花や、ただ光に集まるだけの虫ケラはなぜ生きているのだろうか。
それは自らの意思で生きてはいないからじゃなかろうか。
ただ地球が彼らを育てているだけだ。生きるも死ぬも地球次第といったところ。
おれたちのように、自然に放り出されてもはや生きる術も忘れた新生物は、自らの意思で生きるしかない。
生きるか死ぬか選ぶ権利を与えられてしまった。
人間は生き物を育てる。ペットや家畜の生死をコントロールできる。
一方で多くの生き物も子供を育てる。子供の生死は親が握っている。
しかし種の繁栄は地球の意思であって、彼らの意思ではない。
家畜はまだしも、ペットは種の繁栄とは一見して無縁だ。
ペットは今日で言う不要不急のカテゴリである。
ペットは希望になるから人間に生かされている。つまり生きる活力。
だからなければ死ぬということではないが、生きるのが困難になる人間も多くいるはずだ。
そんな単純なことも考慮されずに政治が行われていないか不安になってきた。
この社会はきちんと人間の生を見つめて作られたものだろうか。
希望を見出しにくい人間が増えるほど、その国は衰退してしまう。
生きる歓びというものはあるのだろうか。
誰にも備わる根源的な生きる意味。無条件に自殺は間違っていると言える何かがあるのだろうか。
情熱の真っ赤な薔薇を〜胸に咲かせよう〜〜
生きていると感じる時、生きるのが楽しいと感じる気がする。
悲しくても、生きていると感じる時は生の歓びを感じる。
つらいのは生きていない時だ。
どんな時に生きていると感じる?それはやはり一つ、自由な時...身体の調子がいい時、天気がいい時。
身体が動かなくなって頭も回らなくったら、何が楽しいと感じるだろう?
それはそうならないとわからん。
まあでも、人間が他の人間を生かすのは自由だからな、どうでもいいことで、問題は自分が自分を生かすかどうかという場合で。
だから生かさなきゃいけないとうことはないし、自然に放って死ぬのなら、それはもう自然なことだから。
やはり生きる歓びは自分で見つけなければならないようです。
そのためにはできるだけ死んでる時間を作らないことだと思います。
死んでる時間がない以上、当然それ以外の時間は生きているので、OK🙆♂️問題なし、といったところ。なぜならつらくないから。
死んでる時間だけがつらいんよ。
ということで、もし死にたいと感じていたら、スマホを捨ててみるといいかもしれませんね。