尾ひれ100%ブログ

服に7つのシミを持つ男プレゼンツ

ひとづきあい

私は昔からスムーズな会話をする方法がよくわからないし、爆笑のトークもできないので、人付き合いが苦手であった。

かといって人が嫌いなわけではないので、できる限りは人に優しくしたいと思っているし、愛想笑いをする方である。

ある時期は、人付き合いが下手くそなのが恥ずかしく、見た目で根暗をわかるようにして自分の殻に閉じこもり、人前で話すときも「喋るのが苦手なのではなく、嫌いなだけなんだぞ」というテイを貫いていた。

留学に行ったのは、そうしたコンプレックスを打ち砕きたい一心でのことだったのだろうと今思う。

結果として、根暗な内面は変わらずとも、人前で話す時に緊張を隠すのが多少上手になった気がした。

留学に行ったという事実を自分の中に持つことで、「俺は喋るのが苦手じゃないんだぞ」というテイで人前で話せるようになっていた。

ただそれだけでなく、貴重な実感として得たのは、どんな言葉でも、正直に伝えようとすれば、伝えたいことは伝わる程度の、人間に対する理解力が、我々人間には備わっているのだということである。

不完全な英語でも、懸命に言葉を口から出せば、相手に伝わるという体験をしたからこの実感を得た。

私が初めて覚えたコミュニケーションの方法は、「本当に思うことを言葉にする」という最も単純な方法だった。

それ以外の方法は今のところ愛想笑いしか知らない。

23年生きてそれしか知らんのか!仕方ない。勉強をサボっていたから。

私は自分のことを気遣い屋だと思っていたが、実はそうではなかった。

むしろ私は人の気持ちが、人よりわからない。

気遣っているのは人の気持ちではなく、その場の「空気」である。

飼い主が喧嘩しているのを前に、よくわからないくせにおとなしくしている犬や子供と同等である。

付き合いの長い相手、もしくは自分を解放し切ったイカレボーイ相手でもない限り、気持ちがわからないので、何を言うべきかをその場の空気をもとにしてしか考えられない。

いわば会話の縛りプレイである。

普通は、周りの皆んながその状態にあるイージーモードの幼少期から会話を繰り返して、相手の気持ちを思いやる訓練をするものだ。

そうして培った会話のコツを世間では「常識」と呼ぶ。

私に常識がないのは、今までくさばなとしか会話をしてこなかったからである。

学校と会社は似ている。同じメンツと毎日長時間コミュニケーションをとることを強制する空間である点においてである。

私のような人の気持ちがわからない人間にとって、そうした空間は苦痛である。

また私のような人の気持ちがわからない人間を相手にする方も、困難を感じるはずである。組織を正常に機能させるためには、全員が人の気持ちを理解できること、つまり組織が一人の人間のように思考することが理想だからだ。

私は率直であるだけだ。だが、当然人間は皆違うので、個性を垂れ流しにする者は、組織が一人の人間のようになることを妨げる。

だからこそ組織は規則を持つことで、一定のところで個性をせき止めようとするのだろう。

裏を返せば組織とはそれだけのもので、人の個性を何でもかんでも殺していい場所ではない。

理解しようとしない人間が悪者なのであり、理解が苦手な人間は悪くない。

私が留学で習得したのは社交性ではなく、個性を垂れ流す度胸だった。

思っていたのと違うのを習得してしまっていた。