尾ひれ100%ブログ

服に7つのシミを持つ男プレゼンツ

感受性と人間模様

私は根暗なので、人間を苦手とする。

しかし、人間を苦手とする大多数の人がそうであるように、私もそれだけ人間を愛する。

私は特に複数人の人間を相手にするのが苦手だ。

それは私の声がこもりやすく、複数人を相手に発言すると無視されちゃうことがあるという理由にもよるが、感受性が豊かであることが大きいと考える。

つまり、受け入れるのがひとりの人間であれば処理できるところを、複数人を相手にすると、受け入れる情報が多すぎて処理が追いつかないのだ。

また、ひとりふたりにかかわらず、人間の発する情報はその人によって異なる。

まったく馴染みのない情報を持つ人間もいれば、すでに私の中で処理が終わっている情報を多く発する人間もある。

いわば苦手分野と得意分野である。

例をあげると、前者は外国人である。外国人は文化が違う。ただし文化が違うだけで性格としては私の中での「得意分野」であるというパターンもある。

後者は、自分と似通った性格の人があげられる。

ちなみに、後輩や同僚は一見して後者の存在だが、実はそうではない。

後輩とは、自己にとって時間軸を前にすることで共通意識を見出せる人間のことである。

裏を返せば、その共通意識は時間軸を前に戻すことで得られる自分の通った道のみであり、他の部分(それまでの経験、考え方など)はまったく異なることがほとんどである。

つまり、後輩であることとは、共通意識が、ある一点のみにおいて濃厚である条件というだけで、それ以外のところでは、一歩一歩、手探りな情報交換に立ち戻ることがほとんどである。

一方で、似通った性格の人間とは深い話ができる。

本来なら言葉にして共有しなければならない情報が、すでに前提としてお互い持つので、より踏み込んだ会話ができる。

しかし、似通った性格の人間と話をしていても、新しい発見がないことはたしかである。


「おれは普通じゃないから、普通の人間とは話が合わない」と言う人がいる。

この考えは間違っている。

彼の間違いは、世の中には「自分の側の人間」と「それ以外の人間=普通の人間」しかいないという考えにある。

たしかに彼は「普通」ではないが、そもそも「普通」の人間なんて一人もいないのである。

もっといえば「自分の側の人間」などないし、あるのは個々の人間ひとりひとりがいるだけのことである。

「自分の側の人間」とは、それぞれがある程度同じような経験や育てられ方をして、それらの情報をある程度前提にしているから、同類に感じるだけのことである。

人間の種類は無限にある。

同類に感じる人間との関わりの先にあるのものも無限であるし、当然、関わりを持ってこなかった人間との世界も無限である。

私が人間関係で尊重するのは、肯定の精神である。

人と人との間に壁を作らないこと。