尾ひれ100%ブログ

服に7つのシミを持つ男プレゼンツ

仕事に対する考え方

人間、生きていくにはお金が要るので、誰もが何らかの形で仕事をしてお金を稼いでいる。

生きていくのにお金が要るということ自体、真理であるかは怪しいものだが、今は原理として受け止め、それに対して疑問を持つことはしないでおく。

仕事を人生の中心の柱にできる人とそうでない人がいると思う。

私なんかはどうやら後者で、会社にいる時の自分は本当な気がしなくて、仕事のことなど忘れて「今が何時か」ということも考えることなく、何人の人間がこの瞬間にオーガズムに達しているのか、と空想を巡らす時の方が生きている実感を得るものである。

やはり、何に価値を見出すかという点が重要に思える。

社長の納得する広告を制作することよりも、今この瞬間にオーガズムに達している人の数に思いを巡らすことの方が、私にとっては価値があるように思えるのだろう。

かといって、今この瞬間にオーガズムに達している人の数を算出することで生計が立つとしても、その仕事をやりたいわけではない。というか絶対にやりたくない。普通に考えて嫌である。

それはきっと、仕事になると、オーガズムに達している人の数を考えるだけではダメで、他にもいろいろやらなければならなくなるからだ。

それは、納期であったり、答えが出なくても答えを出さなければならなかったり、報連相が必要になったり、など。

結局こうしたことに対するストレスに負けてしまう人が、仕事に拒否反応を起こしてしまうのではないか。

でも、今この瞬間オーガズムに達している人の数を考えることの醍醐味は、誰にも邪魔されずに答えの出なくてもいいことを、好きなだけ考えるところにあったりする。

その人が最も価値を感じるのはそうした時間なのかも知れない。

この感覚を麻痺させ、心通わぬ他人と共同することが社会性を身につけるということではないか。

また、この感覚を殺し、「克服」することが、社会人として成長するということではないか。

本当のことを言えば、きっと私はそっちへ行きたくないのかも知れない。

仕事を人生の本業に置くために必要なパーソナリティの条件はあまりに限定的だと思う。

それにハマらないと毎日が地味にしんどいという社会システムのあり方はイカがなものか?🦑

続きはまた来週。

感受性と人間模様

私は根暗なので、人間を苦手とする。

しかし、人間を苦手とする大多数の人がそうであるように、私もそれだけ人間を愛する。

私は特に複数人の人間を相手にするのが苦手だ。

それは私の声がこもりやすく、複数人を相手に発言すると無視されちゃうことがあるという理由にもよるが、感受性が豊かであることが大きいと考える。

つまり、受け入れるのがひとりの人間であれば処理できるところを、複数人を相手にすると、受け入れる情報が多すぎて処理が追いつかないのだ。

また、ひとりふたりにかかわらず、人間の発する情報はその人によって異なる。

まったく馴染みのない情報を持つ人間もいれば、すでに私の中で処理が終わっている情報を多く発する人間もある。

いわば苦手分野と得意分野である。

例をあげると、前者は外国人である。外国人は文化が違う。ただし文化が違うだけで性格としては私の中での「得意分野」であるというパターンもある。

後者は、自分と似通った性格の人があげられる。

ちなみに、後輩や同僚は一見して後者の存在だが、実はそうではない。

後輩とは、自己にとって時間軸を前にすることで共通意識を見出せる人間のことである。

裏を返せば、その共通意識は時間軸を前に戻すことで得られる自分の通った道のみであり、他の部分(それまでの経験、考え方など)はまったく異なることがほとんどである。

つまり、後輩であることとは、共通意識が、ある一点のみにおいて濃厚である条件というだけで、それ以外のところでは、一歩一歩、手探りな情報交換に立ち戻ることがほとんどである。

一方で、似通った性格の人間とは深い話ができる。

本来なら言葉にして共有しなければならない情報が、すでに前提としてお互い持つので、より踏み込んだ会話ができる。

しかし、似通った性格の人間と話をしていても、新しい発見がないことはたしかである。


「おれは普通じゃないから、普通の人間とは話が合わない」と言う人がいる。

この考えは間違っている。

彼の間違いは、世の中には「自分の側の人間」と「それ以外の人間=普通の人間」しかいないという考えにある。

たしかに彼は「普通」ではないが、そもそも「普通」の人間なんて一人もいないのである。

もっといえば「自分の側の人間」などないし、あるのは個々の人間ひとりひとりがいるだけのことである。

「自分の側の人間」とは、それぞれがある程度同じような経験や育てられ方をして、それらの情報をある程度前提にしているから、同類に感じるだけのことである。

人間の種類は無限にある。

同類に感じる人間との関わりの先にあるのものも無限であるし、当然、関わりを持ってこなかった人間との世界も無限である。

私が人間関係で尊重するのは、肯定の精神である。

人と人との間に壁を作らないこと。

電子たばこの支配

バイト先にバッチャンという変なあだ名の男がいた。

彼は元ドカタでスニーカーオタクのバカ田大学生である。

バイト先は私含めバカ田大学の文学部生が多く、彼らは皆喫煙者であった。

バッチャンもその一人であったが、ある日から電子たばこを喫うようになった。

理由はどうでもいいのだが、電子たばこの使用者と何度も喫煙の場を同じくすることで思うことがいくつかあった。

まずよく言われていることであるが、電子たばこは全然臭くないし、煙もほぼ出ない。バッチャンはこの点を35回はアピールしていた。

次に、喫えるようになるまでの待ち時間が1分ほど存在する。

紙タバコの人が火をつけて喫い始めている間、バッチャンはいつも電子たばこを握りしめて1分ほど暇そうにしていた。

この時間なに?と思う。

さらに喫い始めて40秒ぐらいでタバコの効果は終わるらしい。

1分待ってやっと喫えたと思ったら、ものの1分も経たぬうちに火は消えるので、いつもバッチャンは再び電子たばこを握りしめて暇そうにしていた。

この時間制限はなに?と思う。

吸い始めるタイミングと吸い終わるタイミングの決定権は電子たばこにあるのである。

まるで支配である。電子たばこが人を支配している。

これでは、喫煙の本来の目的である「心のひとやすみ」など到底叶えられない。

出勤時間、退勤時間を決められて、自由を奪われた日常と変わりやせん。

そんなことがあってたまるか!


ということはバッチャンには言わなかった。

旅行の価値

ニンテンドースイッチが欲しいと思った時、3万円するので高くて買えないと思う。

しかしその実、私たちは3万を遥かに凌いで高額な「家賃」を毎月バカのように払い続けている。

仮に家賃をひと月でも節約できたとしたら、ニンテンドースイッチと人をダメにするソファ「Yogiboo」を買ってお釣りがくるのである。

家賃と並んで意味わからん金かかるものに「旅行」がある。

特に「海外旅行」はヤバイ。飛行機代が往復で10万円とか普通にかかる。

しかも飛行機に乗ること自体は単に過酷なだけの「移動」であり、アクティビティでも何でもないのだからヤバいである。

10万円とは大金である。日常において凡そ払う勇気の出る金額ではない。

10万円があれば大概のものが買える。ウニも買えるし、あんなに高そうなテレビも買えてしまう。

同じ10万円でもテレビは一生使えるが、旅行は行ったら5日かそこらでオワリである。カタチあるものは何も残らない。沖縄に行った場合のみシーサーの置物が残る。

にもかかわらず我々は「旅行」が好きである。そんな好きでない人もいるが。

私も旅行が好きである。普段は2万円以上を一度に使えないビビリの男だが、旅行に10万円かけることに「勿体無さ」は覚えない。

「旅行」の時間は、私にとって人生で最も価値ある時間の一つである。他には「カラマーゾフの兄弟」を読んでいる時(頭が良くなった気持ちになるため)と特大の耳あかが取れた時(気持ちがいいため)に最も価値を感じる。

ちなみに最も価値を感じないのは、アルバイトをしている時である。菅直人でさえ、同じだけの時間があれば、5倍は価値のあることを成し遂げるだろう。大きな耳あかをとるとか。

人生の時間をそのまま1時間1200円で販売しているだけである。他には何も残らん。虚しい。


私は先週、タイはプーケットに行ってきた。

プーケットとは聞きなれない地名である。

プーケットと聞いて思い浮かぶものは?というアンケートを2名にとったところ、一人がオナラ、もう一人が屁と答えた。

プーケットとはタイ史上最も大きな島であり、ビーチが367個(ほんとうは30個ぐらい)あるアジア屈指のリゾートアイランドである。

私ほど青い海と白い砂浜の似合わない男もなかなかいないが、私はビーチが好きである。

私は太陽と海が好きであった。

陽の光を浴びることに何よりの快感を覚えた。生の実感を得た。

ただし私は水に沈むので、砂浜で寝たり砂遊びをするだけであった。

気が向いたら近いうちに旅行記を書きたいと思う。

優柔不断のメカニズム

私は優柔不断である。

しかし、人のことをして優柔不断とカテゴライズすることは簡単である。

そもそも我々は、便利な言葉に甘えて物事の本質を問う姿勢を忘れがちではないか?

なんだか物事をパッパと決められない人をして、「君は優柔不断だなあ!」と言う時、これを言った人と言われた人をツナグものは「優柔不断」というただ一語のみ。

言った人のココロと言われた人のココロの共通項を表現するのに、本当にその言葉だけで足りるだろうか。

こういった場合に限らず、本来複雑であるはずの事象を、使いやすい言葉で乱暴に抽象化し「わかった気になっている」ことはないだろうか?

本論はそうした現代人の怠惰な言語表象姿勢に対してギモンを投げかけ、投げっぱなしのギモンを集めてこねておだんごをつくることを目的とする。


私は優柔不断である。物事をパッパと決められない。

なぜかというと、私は人より多く検討事項が頭に浮かんでしまう性分であるからだと思う。

例えば、コンビニで夜食を買う時に何を迷うか。

まず食べたいもののボンヤリしたイメージを見る。そのイメージは食感であったり温度、カロリー感など、かなりミクロな次元で見える。

それら細かな条件に近い食べ物を探していく。

例えば最も優先したいイメージが「カロリー感」であった場合、その時点でまずおおよそ検討する夜食は絞られる。揚げ物であったり、ご飯がガッツリ載っているものである。

しかしその後の細かなイメージを照合するティアーは私のキャパシティの問題で全体検索的に行うことができない。

一つを手に取り、口に含んだ時の満足感がどうかをシュミレートする必要があるのだ。この行程が非常に時間がかかる。

また、これが食べたいとなっても検討する項目はそれだけではない。

夜食にだって予算はある。某美食家デニム東大生のように「食べたそうなもの」を全て購入してもしも食べなかったら友人の家に置いて帰るというようなSuica残高常に1万円男でもない限りだ。

また「これでおなかいっぱいになるか」という問題もある。牛乳パンを合わせて買うかという検討が始まり、そしてこの項目は必然的に予算の管理に影響を及ぼすのみならず、食べ合わせのイメージの検討にも手をつける必要が生まれる。

この作業を完遂しようとしたら、コンビニに1時間はいるだろうし「コンビニ博士」と呼ばれること必至である。

そもそも採算に合わない。夜食を買うだけで夜食3回分のカロリーを消費してしまう。

そこで期待されるソリューションは「自動化」もしくは「AI」である。現代のソリューションは大体「自動化」か「AI」を導入すれば何とかなる。

夜食選定業務における「AI」とは、不動産の物件検索サイトにあるような細かな条件にチェックをつけることで、「今ある選択肢」から最も適切な「今食べたいもの」を算出してくれるアプリケーションの開発である。

このプログラムは、この検索機能を使えば使うほど好みが反映され精度が増す。さらにGoogleアカウントと連携することでよく訪れるご飯屋などの情報からも好みが明確化していく。

「食の好み」もデータで管理する時代である。あとはうちの弟である天才プログラマー・コウネプソンがやってくれるはずである。

ちなみに夜食選定業務における「自動化」とはすなわち「思考停止」のことである。

つまり、毎回アブラ学会に行くことで検討のコストを削減し、一定の私満足度を実現し続けることである。

Yahooブログサービス終了に伴って

Yahooブログが今年をもってサービス終了するとのことだ。

他社ブログへの記事本文の移行は5月より可能になるらしいが、コメントは消えてしまうとのこと。

中学二年生の頃より続けてきたブログだけに寂しい。

とはいえ、Yahooブログで書いている著名人などノンスタイル石田ぐらいしかおらず、他は個人のマイナーな、誰も興味のないしょうもないブログばかりだったので、当然といえば当然である。

本当にYahooブログはダメで、公務員が運営しているのかというぐらい保守的なブログサービスだった。

ただ、誰も興味のないしょうもないブログを読むのは結構面白かった。

コメントもほとんどつかないので、それこそ誰の目に入っているかも知れず、本当に個人の率直な心情がポツンと転がっているようなノスタルジーはYahooブログならではである。このブログもそうだ。

大学受験時代以前の記事は恥ずかしいので消してしまったが、当時の正直な心情というのは見返す価値があった。後悔している。


私が投稿し始めた頃はまだYahooプロフィールなるものがあった。一昔前に流行ったいわゆる「プロフ」である。

当時の「友達」は中学時代の「リア友」が何人かと、私が幅を利かせていたパラパラ漫画投稿サイトの知り合いだった。

当時私はパラパラ漫画サイトで意味不明なカリスマを発揮しており、私がYahooブログを始めるとみんな始めた。

彼らは今どこで何をしているのだろう。

あの頃から投稿を続けているのは私とお父さんとノンスタイル石田だけである。

TWILIGHT FLIGHT

妹が留学に旅立った。

見送りに、家族みんなで空港へ行った。

空港というのはなぜあんなに寂しいのか。

フライトの時間の18時頃には、空まで茜がかり、広すぎるロビーには人もまばらだった。

成田空港のヤバイのは、ロビーから手荷物検査をした後に通るガラス張りの階段である。

手荷物検査をする場所からは、搭乗者以外は立ち入りできない。

ガラスによって、旅立つ者と見送る者が残酷に隔絶されるのである。

アレはメチャメチャ寂しい。やめてほしい。



留学に行く日本人には二通りある。

ひとつは外向的な性格を極めすぎた例。

溢れ出るコミュニケーション力、他者と繋がりたい欲求、外の世界と一体化したいハレンチな欲求を持て余し、日本を飛び出さざるを得なかった例。

だいたいこういう輩は元からマッチョでカリアゲである。女性ならばガッソリした横分けロングにウルトラストレッチハイパースキニージーンズを履いている。

もうひとつは、逆に内向的な性格を極めすぎた例。

答えの出ない内省に疲れ、半ば自暴自棄となり、自身を異化できる新天地を求めて闇雲に海外に飛び出す例。

こういう輩はだいたいが目の奥に闇を抱えている。スポーツはしないのに変にマッチョだったりカリアゲはカリアゲでも丁髷だったりする。

海外に行ったとしても爽やかなコミュニケーションを苦痛に感じるので、大して英語力も上達しないがちである。

浮き彫りになる自己の姿を突きつけられながら、そしてそれを時折見ないようにしながら、精一杯の生活を送る。

目的もないので、持て余すエネルギーは発散されず、精神的な活動ばかりが尚更活性化する。

何を成せるでもなく夢の中のように時間が過ぎる。

妹は明るくて良い子だが、前髪はフンワリカールだしウルトラジーンズも履かないので、心配である。