マッチングアプリ
恥を偲んで言おう。
マッチングアプリなるものを使ってみた。
いや、使ってみた、などという、ずるい言葉尻はよそう。「使ってみた」や「歌ってみた」などという表現は、本気でチャレンジしたわけではないですよ、という予防線を張るセコい言葉尻だ。
そう、ここ1ヶ月間、私はマッチングアプリをズブズブに使っている。入れ込んでいるといっても過言ではない。
こんな類のものは、私のように自律した精神を宿すいわば哲人28号が最も忌むべき存在であった。
部屋の中で独り、この世の邪悪を憂い、真理を尊び、世界平和のために思索を巡らすはずの時間を、不特定多数の女子らのために不毛に費やすなど、あってはならない。恥ずべきことだ。
初めこそ、現代の恋愛の新しい形である、などと革新的ぶって知略的な活動に熱心だったが、今やもう本分を失っていることに気づいて参ってしまった。
身を焦すほどの恋情を抱いていないにも関わらず、刹那的な人恋しさに身を委ね、異性を求めるなど、我々が最も唾棄すべきこととしてきたのではなかったか。
恋情など所詮は性欲の一形態に過ぎない。その人物の存在が「当たり前」になってからこそ、人としての付き合いが始まる。
人類は元来、「乱交型」の生物らしい。年中生殖の準備があって、一人の相手を持たない。どころか子供というのは誰と誰の子であるかわからないことがほとんどで、誰の子かもわからないそいつらを男女のコミュニティが協力して育てていたらしい。
そうした1万年の歴史を前にすれば、現代の色恋文化がいかに頼りないものかわかるだろう。
つまり、恋情とは性欲である。
しかし、愛情は文化だ。
コミュニティの中で、一人一人の人間と向き合い、共に生きようとした時初めて、性欲を超えて「理性」の致すところの真の人間の営みが始まるといえよう。