フィクションの思い出
井上陽水の「少年時代」に登場する「風あざみ」や「宵かがり」などの言葉は造語であるらしいことを最近知った。
たしかに、よく歌詞を追って聴いてみると、言葉もよくわからないばかりか話に脈絡というものもない。
夏が過ぎ、風あざみ。誰かのあこがれ、さまよい。青空、残される、夏模様。
意味は不明だが郷愁を誘うワードがひたすら並べ立てられる。
切ないメロディにのせて語られるこの言葉たちは、ストーリー立てられた歌詞以上に独自の実感としてファンタジーな夏の郷愁を呼び起こす。
抽象的な表現によって鑑賞する人それぞれに深い印象をもたらす手法はなんだか絵画的だ。
夏の青空や、草木のにおいとか、自由だった幼い頃、いつかの花火大会とか、そういう思い出があるからこそ、抽象的であっても芸術を鑑賞できる。
私はこれを「エモパワーの蓄積」と呼んでいます。
何かしら真実の想いを持って生きた瞬間があってこそ、それを呼び覚ます芸術がある。
親の痛み子知らず
親知らずを抜きました。
このあいだ、力いっぱい歯磨きしすぎて歯茎が痛み、通院する羽目になりました。
その際に、親知らずも抜こうということになっていました。
この親知らず、真っ当に生え損ねることこの上なく、生え主の性格のひん曲がり度合いを写したようなひん曲がりぶりで、どの歯医者に見せても抜いた方がいいと言われること請け合いの問題児であった。
一年半前にも、歯科検診に行った折にこの問題児を発見され、抜歯の紹介状をしたためていただくに至った。
しかし、歯科検診に行くことで真人間パワーを使い切った私は、もう一度歯医者に行くための活力を残していなかった。
そのため、紹介状は開封されることなくクシャクシャとなり、引越しのドタバタに紛れて消え失せたと見える。
そこでようやく、はからずも抜歯のお誘いを受け、言われるがままにOKしたというわけだ。
その歯医者は、Googleのレビューで高評価を獲得しているだけあり、ホスピタリティに溢れていた。
受付のおばさんは美人で優しいし、院内も清潔そのもので、スタッフ全員が懇切丁寧な応対を徹底しており、こちらもちゃんとしようという気持ちになるほどだ。
先生の説明も毎度非常に明確で紳士的だったので、この男にならこの親知らずも任せられるのではないかと思った。
きっと痛くないように抜いてくれるはずだと。
抜歯の前日に、親知らずを12個に粉砕された人のブログを読み、激しく戦慄していたが、結果として5砕きで済んだ。
施術中は特に痛みも感じず、自分の口の中で人体を弄っているとは思えない壮絶な破壊音を聞くのみで、30分程度で終わったかと思う。
やはりあの先生の腕が良かったのか。
あとで聞いたが、抜歯といってもよくイメージされるようにペンチのようなモノで引っこ抜くのではなく、歯の付け根をドライバーのような器具でほじくり回して発掘するのが方法だそうだ。
作業台に置かれた血塗れのドライバーを見て、あとで聞いてよかったと思った。
粉砕された歯は記念に持ち帰らせてもらった。
しかし、家に帰って開封すると、エグい虫歯となっており、触った指が壊死するほどに強烈な臭いを放っていたのですぐに捨てた。
あまりにも臭かった。
おれはこんな臭いものを口の中に入れて生活していたのかと思うと、さすがにこれまで会った人々全員に謝りたくなった。
通院につき
どうやらおれはもうおっさんになってしまったらしく、体調が万全の時の方が少ない。
いつもどこかしらが不調だ。
今は陰茎が痛い。目も痛いし、何となく口が渇くし、お腹もゴロゴロなっている。頭も少し痛いかもしれない。
先日、原因不明の鈍痛が陰茎を襲ったために仕事を休んで泌尿器科に行った。
原因は不明だった。いまだにちょっと痛い。
今日は歯医者に行ってきた。
右と左、両の奥歯の付け根が歯磨きの時に痛むからだ。
これについては強い力で歯磨きしすぎだということだった。
おれはてっきり虫歯があると思って念入りに磨いていたつもりだったが、それが歯茎を傷つけることとなり、痛みを感じるに至っていたようだ。
案の定、ありえないぐらい横に向いた親知らずがバレて、ぬきましょうという話になった。
この親知らずについては、歯医者に行く度に見つかって、抜きましょうと言われる。もう10年ぐらいそういう話をしている。
そのたびにのらりくらりとめんどくさがって抜かずに今日まで来たが、もうさすがにこのやり取りが不毛に思えて抜いてもらうことにした。
健康診断の結果が返ってきた。
赤血球が異様に多いらしく、精密検査を受けるように言われてしまった。
血液内科を受診しなければいけないが、そんなニッチなジャンルを扱う病院はそうそうない。
結局、健康診断をやってくれているとこが提携している総合病院で検査することになった。
非常に面倒くさい。
大方、どこの病院にいってもいうことは同じ。たばこをやめなさい。お酒は控えて、生活習慣を改善しなさい。
やかましいわ。体がオレに合わせろ。
おれは酒もたばこもやめないし、寝る前に脂っこいものを食べることをやめない。
不健康を我慢するのではなく、健康をより多く取り入れることで健康になってこそ、生きていると言えよう。
そうだろ鉄雄。
Re: マッチングアプリ
「不良少年とキリスト」を読みました。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42840_24908.html
虚無は人間の付随品である。
生きることの虚しさなんていうものは、誰にも備わる人性の一部であって、たしかに真理ではあるが、ただ一つあるタイプの真理とは違う。
人生は無意味だ。
それはゴモットモで、そんなことはあえて真理めかしていわずとも、人生が少なからずそういう側面を見せることがあるのは全く当たり前のことで、人間たるもの誠に考えて喋るべきはその前提のもとで如何に生きるかということに他ならない。
昨日の性欲に関する話も全く同じことで、恋情が色欲を原動力とするなんてことはこれも人性の一部であり、いまさら自明のことであって、いちいちそういうことに絶望して何を語ることもない。
常に考えるべきは「その上で」どうするかということである。
マッチングアプリ
恥を偲んで言おう。
マッチングアプリなるものを使ってみた。
いや、使ってみた、などという、ずるい言葉尻はよそう。「使ってみた」や「歌ってみた」などという表現は、本気でチャレンジしたわけではないですよ、という予防線を張るセコい言葉尻だ。
そう、ここ1ヶ月間、私はマッチングアプリをズブズブに使っている。入れ込んでいるといっても過言ではない。
こんな類のものは、私のように自律した精神を宿すいわば哲人28号が最も忌むべき存在であった。
部屋の中で独り、この世の邪悪を憂い、真理を尊び、世界平和のために思索を巡らすはずの時間を、不特定多数の女子らのために不毛に費やすなど、あってはならない。恥ずべきことだ。
初めこそ、現代の恋愛の新しい形である、などと革新的ぶって知略的な活動に熱心だったが、今やもう本分を失っていることに気づいて参ってしまった。
身を焦すほどの恋情を抱いていないにも関わらず、刹那的な人恋しさに身を委ね、異性を求めるなど、我々が最も唾棄すべきこととしてきたのではなかったか。
恋情など所詮は性欲の一形態に過ぎない。その人物の存在が「当たり前」になってからこそ、人としての付き合いが始まる。
人類は元来、「乱交型」の生物らしい。年中生殖の準備があって、一人の相手を持たない。どころか子供というのは誰と誰の子であるかわからないことがほとんどで、誰の子かもわからないそいつらを男女のコミュニティが協力して育てていたらしい。
そうした1万年の歴史を前にすれば、現代の色恋文化がいかに頼りないものかわかるだろう。
つまり、恋情とは性欲である。
しかし、愛情は文化だ。
コミュニティの中で、一人一人の人間と向き合い、共に生きようとした時初めて、性欲を超えて「理性」の致すところの真の人間の営みが始まるといえよう。
エンジェルベイビー
引っ越しは日常を異化する。
住む環境が異なるということは、もはやこれ旅行と同じである。
新しい暮らしに慣れるまでの何日かは、旅先でのあの不安や新鮮な感情がずっとある。
引っ越し前後は何かと忙しいものだ。
住む家を見つけるのがまず一苦労だし、もちろん引っ越し作業は人生の中でも指折りの肉体労働である。(今回は筋肉番付の父親とふつうの主婦である母親がほとんど運んでしまった。どういうこと?)
引っ越し作業が終わってもインフラの整備や各種手続きなど、その忙しぶりは平日働いてるサラリーマンのキャパシティを遥かに凌駕する。
仕事のことよりも引っ越し関連のことを考えている時間の方が長いので、自分の仕事が引っ越しだったような気もしてくる。
実際、ここ数日おれは全く仕事をしてない。なんか仕事がなくなったからだ。
仕事がないというのは良くない。我が社は月給制なので、お金を生み出していない奴にもおちんぎんが発生してしまうことになる。
それに仕事がないと暇である。それでいてサボっていても落ち着かないので、なんとなく仕事をしているフリをしていると心が貧しくなっていくのを感じる。
明日は2時間ぐらいは仕事があると思うので出社します。家にはネットもないし。
家にネットが敷かれたら少しは心境も落ち着くだろう。