尾ひれ100%ブログ

服に7つのシミを持つ男プレゼンツ

哲人であれ

「14歳からの哲学」を読みました。

仕事がなく暇だったので。

14歳からの哲学 考えるための教科書

14歳からの哲学 考えるための教科書

  • 作者:池田 晶子
  • 発売日: 2003/03/20
  • メディア: 単行本
 

 

僕は14歳ではないのですがね。

 

いつも僕がここで書いているような根暗事(ねくらごと)が丁寧に書いてあります。

考えるって、何だい?とか、自由って、何だい?とか、本当にそんな感じ。文体もそう。

 

SELF LOVE

みんなは自分を愛しているかい?

自分を愛していない人間が、他人のことを愛せるわけがないんですよ。

こりゃ大きく出たね。それはなぜかい、と。

 

君は精神を鍛えているか?

快と不快によってのみ行動を選択する虫野郎になってはいないかい?

僕はしばらく精神を鍛えることを忘れていた。

大学時代に柄谷行人を読んだあたりから変な影響を受けて、快・不快の根底にこそ真実があるような気がしていたからだ。

それは、その瞬間の、その人の真実の姿に違いないが、逆に言えばその瞬間だけだ。

やっぱり僕も、何がしたいか?ではなく、何をするのが正しいか?と考えることによって選択したい。

それができていないから、これほど孤独を恐れる。

よく考えもせずに孤独から逃げようとするから怖い。不快と向き合い、我が物とすることで初めて一つ生きたと言える。

ですよね!?

引っ越しのこだわり

5月、おれは家を追われて難民となる。

おすもうの地、両国ともおさらばだ。

不動産屋さんに、両国ってどんな街ですか?と聞いたら、張り手のポーズをしながら「どすこいどすこい、ってイメージですね」と言っていた。

 

次の引っ越し先は大変迷った。

仕事はほとんどテレワークなので、どこに住んでもいいといえばいいのだが、あまり都心から離れすぎるとトモダチと遊ぶのに有給が必要になる。

それに郊外は「東京」を感じられなくて寂しいではないか。

ただでさえ孤独を極める身、閑静な住宅街にでも住んでみろ。きっと自己の存在すら認識できなくなって「意識の概念」と化すのがオチだ。

やはり「東京」だ。「東京」が持つ無限の人の交差の中に身を置いてこそ自分を発見できる。

 

「東京」イントロクイズ

第1問「ひーびー、」

答え:きのこ帝国

 

みんな、住む家に外せない条件って何だい?

僕はね、日当たり。これに尽きる。

あとね、2階以上。これに尽きる。

 

日が差し込まない土地には草も育たないんだよ。いわんや人をや。

特におれみたいな精神弱者は日光をドーピングしてセロトニンを強制分泌させるぐらいじゃないと3日と持たずに朽ち果てる。

そして2階以上。これ大事。

おれは1日のうちに36回はバルコニーに出て煙草を吸うし、日の光を取り入れるので、その時に人と目線が合うなど最悪である。

当然、バルコニーからの視界は開けていないといけない。

 

そして綺麗でないといけない。

汚い家は最悪である。

たしかに綺麗な家でもおれの手にかかればゴミ溜めと化すのに1週間を要さないが、それでも綺麗な家に住みたい。

醜い野獣がそれでも人を愛したいと言うように綺麗な家を求めている。

物件を検索するときの並び順はもちろん「新築順」だ。

家なんてのは新しければ新しいほどいいに決まっていて、壁は厚ければ厚いほどいいのである。ガッチガチのコッチコチでパンチしたら骨が折れるぐらいの壁がちょうどいい。

ボロアパートの浪漫に憧れる奴は汚い家の辛さを知らない素人である。

そう、部屋が誰よりも汚いからこそ、誰よりも汚い部屋の辛さを知っているということだ。

それに汚い家は惨めだ。

汚いと、帰宅するだけで泣きたくなっちゃいそうだから絶対だめだ。おれは精神が弱いんだから。

 

それで住む街だが、結局早稲田の周辺に決めた。

正直非常に迷ったがね。

みんなの、住みたい理想の街はどんな街だい?

僕はね、寂しくないところ。これに尽きる。

寂しいのがとにかくつらくて、人生の唯一にして絶対の悲しみ、それは孤独なんです。

ここで言う寂しくないとは、商店街があったり、公園が近くにあって行けば子供の遊んでるのが眺められたりすることです。

この世界にはたくさんの人が生きていることを思い出させてくれないと。なぜならおれの存在が危ういから。「意識の概念」になるから。

だから「東京」なんです。

 

「東京」イントロクイズ

第2問:君と別れて僕は石ころになって〜

答え:銀杏BOYZ

 

公園って良いよね。

公園っていうのはパブリックだから。誰にも開かれてる。

おれみたいなロン毛がふらっと訪れてベンチに座っていても誰も怒らないし、誰も気にしない。

公園はいつでもオープンだ。子供も、老人も、浮浪者も、全裸になるSMAPもみんな受け入れてくれる。

この世界に、自分の部屋以外にも居場所がある。それはすごいことだ。

おれはここにいていいんだ、生きていてもいいんだと教えてくれる場所。その街の名は、とうきょう〜〜〜〜〜〜(きのこ帝国)

その観点から考えて行き着いたのが早稲田だったんです。

早稲田はおれが大学時代を過ごした無限のエモパワーの集積された街である。

今でもおれが感じたエモパワーの、その残り香が随所にある。

300回以上通った油そば屋に、ひとりで海苔巻きを食べた大隈庭園に、深夜レポートを印刷するためだけに使った24号館に、おひやに氷を一個しか入れてくれないカツ丼屋に、両の蛇口から10リットル/秒の水が出る銭湯に残っている。

おれはこの街を知っているし、この街もおれを知っている。だから怖くない。

そう、おれは郷愁に屈したのだった。

エモいことを真剣に話す

エモいことを真剣に話す機会がない。

情緒的な会話が許されるTPOは、革ジャンとポマードが許されるTPOぐらい少ないと思う。

おれはどちらも大好きなので、ふだん非常に窮屈な思いをしている。

一方で、その場にそぐわないと知りながらエモいことを話して楽しいほど自分の世界に生きていないし、それほど良い革ジャンも持っていない。(良い革ジャンは10マンぐらいするから)

というわけで、こうして便所の落書きみたいに人知れずシコシコと、この場に思うことを書いているわけである。

せっかく書いても、人に読ませるのが申し訳ない内容しかないので、自ら宣伝することも憚られて何か実になることがあるわけでもない。

 

一度小説でも書いてみようか。

書きたいことはあっても、それをクリエイティブに落とすことが難しい。

デザインもそうで、コンセプトを精緻化しても、それをどう表現するかが難しい。

何か言いたいことがあって、それをそのまま書くのではただのレポートになってしまう。

どれだけ素晴らしい考えであっても、またどれだけ論理的に整理されていようと、芸術性が施されなければ、人間の心に踏み込むチカラが不足してしまう。と思う。

論理が極まると芸術性を持つことはあるけど。

なんにせよ情緒を呼び起こさんと、心の本当のところには刺さらん。

 

このあいだ、会社のワークショップなるもので、会社のビジョンについて議論した時は面白かった。

会社のビジョンといっても、経営計画みたいなつまらない話ではなく、弊社はブランディングの会社なので、人々をどういう気持ちにさせたいか?のようなエモ寄りの話を深掘りするような会だった。

コピーライティングが本業のオネエっぽいオッチャンとも話した。良いコピーを見ると泣いちゃうと言っていておもろかった。

おれも良いコピーで泣きて〜〜そして一方で泣かせて〜〜

別に泣かせたくないな。人の気持ちあんまどうでもいい。

正確には自分で自分を泣かせたい....結局おれは自分のことばかり.....

この件についてはまたいつか考えよう。

死んでる時間

死にたいと言う時、本当に死体になりたいと思って言う奴はいないだろう。

要は生きるのを辞めたいのである。

人は生きながらに死ぬこともできる。

現実逃避の時間がそうだ。ベッドに横たわってそれほど見たくもないYoutubeの動画を何時間も見ている時、おれの存在は道端に落ちている石と同等である。

しかし、心臓が動いている以上、また人間に戻らなければならない。

それが嫌だからいっそ死んでしまいたいと思う。

 

生きる活力とは希望である。

まだしたいことがあれば生きたいと思う。死にたい奴は、したいことがないから生きたくない。もしくはできないと思っておる。

もしも本当にしたいことがない、あるいはしたいことが絶対できないのだったら、死んだ方がいい。つらいだけである。

だが人間はそういうふうにはできていないはずだ。いや、逆に誰もそういうふうにはできていないかもしれない。

いずれにせよともかく、希望は見出せる性質のものなので、多くの場合は死んだ方がいい奴なんてそうそういないのが現実である。

だから、植物人間になったり、何か重度の障害を負った場合は正直死んだ方がいいんじゃないかと思ってる。

あまりに希望がない。

 

そういうこととは別に、生きる歓びというのが本当にあるのだろうか。

物言わぬ草花や、ただ光に集まるだけの虫ケラはなぜ生きているのだろうか。

それは自らの意思で生きてはいないからじゃなかろうか。

ただ地球が彼らを育てているだけだ。生きるも死ぬも地球次第といったところ。

おれたちのように、自然に放り出されてもはや生きる術も忘れた新生物は、自らの意思で生きるしかない。

生きるか死ぬか選ぶ権利を与えられてしまった。

 

人間は生き物を育てる。ペットや家畜の生死をコントロールできる。

一方で多くの生き物も子供を育てる。子供の生死は親が握っている。

しかし種の繁栄は地球の意思であって、彼らの意思ではない。

家畜はまだしも、ペットは種の繁栄とは一見して無縁だ。

ペットは今日で言う不要不急のカテゴリである。

ペットは希望になるから人間に生かされている。つまり生きる活力。

だからなければ死ぬということではないが、生きるのが困難になる人間も多くいるはずだ。

そんな単純なことも考慮されずに政治が行われていないか不安になってきた。

この社会はきちんと人間の生を見つめて作られたものだろうか。

希望を見出しにくい人間が増えるほど、その国は衰退してしまう。

 

生きる歓びというものはあるのだろうか。

誰にも備わる根源的な生きる意味。無条件に自殺は間違っていると言える何かがあるのだろうか。

情熱の真っ赤な薔薇を〜胸に咲かせよう〜〜

生きていると感じる時、生きるのが楽しいと感じる気がする。

悲しくても、生きていると感じる時は生の歓びを感じる。

つらいのは生きていない時だ。

どんな時に生きていると感じる?それはやはり一つ、自由な時...身体の調子がいい時、天気がいい時。

身体が動かなくなって頭も回らなくったら、何が楽しいと感じるだろう?

それはそうならないとわからん。

まあでも、人間が他の人間を生かすのは自由だからな、どうでもいいことで、問題は自分が自分を生かすかどうかという場合で。

だから生かさなきゃいけないとうことはないし、自然に放って死ぬのなら、それはもう自然なことだから。

やはり生きる歓びは自分で見つけなければならないようです。

そのためにはできるだけ死んでる時間を作らないことだと思います。

死んでる時間がない以上、当然それ以外の時間は生きているので、OK🙆‍♂️問題なし、といったところ。なぜならつらくないから。

死んでる時間だけがつらいんよ。

 

ということで、もし死にたいと感じていたら、スマホを捨ててみるといいかもしれませんね。

肩こり男

肩というか、首というか、もう全身だるいし、早く寝たい。

 

仕事をしたくない一方で、仕事をしていないと気持ちが落ち込むので、ギリギリ仕事をしています。

 

そのギリギリの結果、最近はベッドで仕事をしています。

あぐらかいて座っていればいい方なのですが、疲れるので、仰向けになっていることもSHIBASHIBA。

仰向けになって仕事ができるのか?

それが意外にできる。

ノートPCを腹の上に置いて、限界までディスプレイを開き、限界まで二重顎にして下を睨めばできる。

作業スピードは四分の一になるが。

シフトキーを押すときなど、鬼の指使いである。

 

人間は自由なので、人間同士の自由が交錯した場合、どちらかが不自由になってしまう。

全人類がお互い自由なままに生きたいものだ。

それが幸福の最終形態ではなかろうか?

ねえワトソンくん。

ワトソンくん?

自由ってなんだい?

自由って何だい?

 

みんなはどんな時に自由を感じる?

 

好きなだけお菓子を食べて、好きなだけゴロゴロして、好きなだけおならができる、そんな休日かい?

 

そうかも知れない。

 

あるいは、他人のミスの尻拭いをして、22時まで残業して、客先にいるから満足におならもできない、そんな平日かも知れない。

 

自由とは何か?

 

おれが大学で得たスーパー数少ない知識の一つに、カントによる自由の定義がある。

カントにとっての自由とは、毎朝7時に起きてランニングをして、栄養バランスに気をつけた食事をとる、なかやまきんに君のようなことを言うらしい。

欲望に打ち勝ち、自らを律することこそ自由だと言う。

 

自由とは、自らの意思で決定した通りに行動している状態のことだと思う。

 

人間は生まれながらにして自由。どんな人生を歩むかはオマエ次第ということ。

 

自由を奪われるようなことがあれば、おれたちは闘わなければならない。それは進撃の巨人が教えてくれたこと。

また、自由を奪われることのないように、力をつけなければならない。

 

死にたい奴は不自由。死にたいのに死ねない不自由である。

死にたいのなら死ぬのが真っ当である。

人間はみんな自由であるはずなのだから、自ら選んだ結果に今があるはずだ。

どんな面倒なことだって、オマエが選択してしようとしていることだ。しなくたっていいのにオマエが選んでそうしようとしている。

オマエが選んだ結果がこれだ。すべて自分のせいだ。

 

頑張って引っ越しするぞ!

現実頭皮

現実頭皮とは、禿げの人の頭皮である。

自身の頭皮が禿げているという現実から目を背ける様子をかけている。

 

親父ギャグ🥸

 

何だこの絵文字は

 

🥸

 

男はいつからオヤジになるのか?

 

枕が臭くなったら?駅の階段が辛くなったら?

 

オヤジの前段階は何だ?

青年だろうか。

青年とは?

若者である。男を青年と呼ぶ時、その基準は思想にある。

昔、古本市で1000円ぐらいで買った野間宏の「青年の環」、今も実家のどこかで眠っている。

ごっつい辞書みてーな厚さの本が5巻。まだどこかで眠っている。

あんな長い小説どうやって書くんだ。

 

青年🧑とは、若々しく、エネルギーに満ちており、その有り余るエネルギーが故、この先の長いとも短いとも知れぬ不確かな人生に、希望とも絶望とも知れぬ闇雲な絵空事を心に抱いている。

青年とは無限の可能性だ。

 

自分の可能性を狭めた時に男はオッサンになり、枕も臭くなる。

伸び伸びのパンツを履き、髪もろくに切らなければ、体型もだらしない。

それはおれだ。

鏡を見てみろ。その表情を。

その顔は何かを思い描いている顔か?こんな顔🥸はしていないか?

考えろ考えろ...think think think(プーさん)

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プーさんを見ろ。あれはオッサンである。

見た目が可愛いくて、働かなくても生きていけるから、無垢な少年のような雰囲気を醸しているが、あれが人間の40代男性であったならば、ただの発達障害である。

イーヨーを見ろ。あれこそオッサンである。

おれたちはティガーであらねばならん。

ウフフフー!と言ってしっぽで地面を弾み、己の衝動のまましたいことをするのだ。

しかし、ティガーも40代男性とみなすならば即刻精神病棟行きである。

40代男性は何をしてもダメである。大人しく仕事をして子供を育て、イクメンとして社会的地位を向上させるしかない。

 

青年🧑とは、世界を自分の手で変えられると思っているヤツのことだ。

オイ!頑張れ!

 

少々酔っ払った。