尾ひれ100%ブログ

服に7つのシミを持つ男プレゼンツ

叫び方論(不自然について)

NHK番組、「こだわり人物伝」の松田優作編を観た。

改めて、「ブラック・レイン」における優作さんの演技は素晴らしい。

キャラクターに沿わせた演技でリアリティーを出すのは難しいと思う。

特に日本人は性質として感情表現が静かだし、身体を動かすのも下手だから身振り手振りも小さい。

しかし映画のキャラクターになる時、その場面ごとに視聴者へ製作側の意図を伝達するために、ある種記号的な立ち振る舞いをどうしても要する。

私は一部の大衆映画における日本人の演技がきらいだ。
彼らの演技、特に叫ぶ時なんかは馬鹿みたいに見える。
それは、表現の技巧が稚拙あるいは手抜きであるからだ。

日本人は怒りを表現するのにあんなふうには怒鳴らないし、誰もいない浜辺で悲しみのあまり叫び出したりしない。

よしんば叫び出したとしても、あんなイメージ通りの綺麗な立ち姿にはならない。もっと他の、思いもよらない奇怪な表情になるのが本当であろう。

私たちは安い映画で安い俳優が叫ぶのを見て、嘘っぱちだと思う。叫ぶ姿と、そこにあるはずの心情との乖離を見て、ぎこちなさと吐き捨てたくなるような嫌悪感を催す。

中学生の頃、東京03の飯塚のツッコミを真似してうざがられたことがある。

これはアホだった私が、アホのくせにプロのお笑い芸人を猿真似したから招いた結果である。

飯塚のツッコミは、角田がいて、豊本がいて、さらにあのコントの台本が織り成す世界があって初めてあの面白さが生まれるのであって、アホが一人で飯塚のツッコミのトーンだけを真似ても、現実ではきもいだけである。そこには「現実」と「飯塚のツッコミのトーン」の相容れない関係がある。

そうした不自然さは違和感を与え、不快に変わる。


ブルース・リー怪鳥音やブチキレてる時の顔もちょっと間違えると笑わせにきてるのかな?と思うほど「不自然」だが、あれは闘志を表現する記号として完成している。

記号として完成した「不自然」は、作品の意図を最大限に伝えるため、作品世界の中では不自然とならない。

ブラックレインにおける松田優作の演技も、「不自然」だが、狂気を表現するのにあれ以上の形はないと思わせるほど完成している。

人間の心は本来が「不自然」である。それを表現するのに、型通りの演技では、現実に迫る力、迫力を出せるはずもない。

文章もそうだ。影響された作家が透けてみえるような文体は読むに耐えない。
対して自分だけの世界を表現するために、自分だけの表現の仕方をする人は魅力的である。

大事なのは、己がおのおのの心に誠実な表現を生み出すことである。