シャイニー薊(あざみ)というボディビルダーの筋肉料理動画がYouTubeで流れてきた。
マッスル北村の「牛すじ煮込み」を再現するという内容だったので、マッスル北村が大好きな私は、朝食を食べがてら何の気になしに見た。
案外、話している内容は程よく聞きやすく、面白かった。そして台所が全くオシャレではなく、部屋も狭く、炊飯器をガムテープで補強してたりするところも、マッスル北村みを感じて良かった。珍しくお気に入りになりそうなYouTuberを見つけたと思い嬉しくなり、他の動画も探してみた。
すると、最新の動画の欄には「ポパイ関根」のサムネイルしかなく、「シャイニー薊」の姿はなかった。遡って調べてみると、どうもシャイニー薊は2年ほど前に炎上騒動でYouTube活動から退いたらしい。
現在は何をしているのかSNSを調べてみると、「シャイニージム」というジムを細々と運営しているようだった。「ポパイ関根」のサムネイルが並ぶ登録者44万人のYouTubeの成功ぶりと比べると、フォロワー数千人台のInstagramアカウントは傍目にはやや寂しげに見えた。
炎上の顛末を軽く調べると、別の筋肉系YouTuberが“ステロイド疑惑”を向け、シャイニー薊の元を突撃取材し、その隠し撮り映像に暴言を含む一幕が収録されてしまったのだという。これが致命傷となり、騒動の引き金となったようである。
この手の事件は、ここ数年で数え切れないほど嫌でも目に入ってきた類いのものだ。あまりに善悪の明確な、くだらないムーブメントの一つとして、私は目にするのも嫌だったので、できるだけ深く立ち入らないようにしてきた。
ただ今回は、せっかく珍しく楽しめそうなコンテンツを見つけたにもかかわらず、それがすでに2年前、しょうもない輩によって根絶されていたと知り、少なからず苛立ちを覚えた。そしてその思いを、ChatGPTにぶつけた。
なぜこうした炎上目的のコンテンツを見る人が絶えないのだろうか?なぜ一見して単純な悪を見抜けず、人を攻撃するような事態になってしまうような人間がこうまで量産されるのか?この社会は知性のない人ばかりなのか?と。
それに対しての答えは端的にまとめるとこうだった。
この世に「頭の悪い人ばかり」いるわけではない。
ただ、「そう振る舞うように促される環境」に、多くの人が順応してしまっている。
これを受けて初めて私は「大衆」を「知性のない人ばかり」と切り捨て、そう見える大衆の裏にあるメカニズムを考えることを放棄していたことに気づいた。
この行為は、たった今自分が批判している「知性のない人」と断じた人のしている行為そのものであった。
馬鹿って言った奴が、常に、馬鹿なのだ。この言葉の真意が初めてわかった。
SNS炎上騒動のたびに語られる、「集団心理で人を攻撃するな」「資本主義はその成長のために悪徳を問わない」といった視点は既に常識となっている。
それでも考えなしに人を攻撃するような態度が絶えないのは、私のように何かしらをまだ見落としている人ばかりだからだ。何か皆、裏の事情を考えることを放棄しているのだ。きっと数え切れない、自分でも気づかない些細な思考放棄によって、すれ違いが生まれている。
さらに悪いことに、社会はその態度を加速させている。複雑なものはわかりやすく。結論から話さない奴は馬鹿だと言われ、イントロから盛り上がらない曲は聴かれない。
思考の筋力は衰えるようにできている。そして考えない大衆に、まるで「答え」かのように結論をを与えているものの一つが「文化」である。
例えば、ヒーローが力によって悪を打ち倒すのは、古来からほとんど進歩していない勧善懲悪の形である。興行的に成功をおさめる「文化」のほとんどの構造はコレである。この構造は思考しなくても何だか気持ちよくなれる、「わかりやすい」構造だからだ。
ほとんどの場合は「悪」が「悪」として疑いようのない存在として描かれるので、思考の必要がない。
現実世界ではそのようなケースは存在しないにも関わらず、私たちの思考法はこれに倣って執行される。
ディズニーが試みているのは、多様性の分野における思考停止の克服である。
行きすぎたポリコレと揶揄されているが、そもそも今まで語られてきた物語こそが偏った視点に立っているかもしれないということに気づかなければならない。
配慮が過剰になるリスクを認識しながらも、それでも「今まで語られてこなかった人たちの物語」を見たい。ディズニーの試みには、その意志を感じる。